【月桂樹】 そもそもこのテアトロ・コムナーレの裏の通用門に奇跡的に人の気配がなかったことが原因だ。 気がつけば誰にも止められないのを幸いに、彼はついふらふらと入り込んでしまっていた。 彼は実直な男だった、粗野な輩のように密かに侵入して彼女をひと目盗み見ようなどと考えたわけではなかったのだが、しかし毎公演ごとに訪れては彼女の姿を見るのがいまや人生唯一の生きがいとなった彼にしてみれば、今公演に限って運悪くチケットを手に入れることが出来なかったのが何よりも気分を憂鬱にさせていた。 だからという訳ではないが、せめて彼女のいるであろうこの場所で静かに彼女を想いたかっただけである。 それには彼女により近く、そして邪魔されない人目に付かない場所が欲しかったというだけだ。 それでも見付かれば早急に追い出されるであろうことは覚悟の上だった。 日も高く夕刻から始まる公演には早すぎる時間のこと、警備が手薄なのもそのためであろうか。 彼がこの伝統ある歌劇場の裏手にあった大樹の下に腰を下ろし今日何度目かの深いため息をついたときだった。 微かに、それは本当に微かにだったが、どこからか澄んだ声の、美しい調べが風によって流れてきた。 ―まさか。 彼はとっさに立ち上がり、その声の主を探し始めた。 劇場を囲む塀の上、城壁の見張り塔のようにそびえ立つその僅かな空間に声の主はいた。 彼女の理想的なとび色の長い髪はまだ結い上げられることなく、柔らかな微風に揺れるにまかされていた。 歌の練習中だったのだろうか、何度も同じ節を繰り返し歌う彼女の横顔には薄く化粧がほどこされていただけであった。 その身は薄い水色のシュミーズにのみ覆われ、肩には赤いビロードのショールがかかっている。 白い長手袋をはめた繊細な指先に月桂樹の小枝を弄びながら無防備に座っていた。 舞台で見る豪奢な衣装や髪飾り、メイクをしていなくともその姿は美しかった、いや、返ってこの生地の彼女に近い姿こそがいつにも増して素晴らしく美しく映った。 それだけでは足りないくらいである、比類ないと付け加えてもいいだろう。 彼はその姿を見るなり思わず叫んだ。 「ラウラ!」 その声に弾かれたように振り返ったその顔は紛れもなく彼の心をもやつれさせるほどに焦がれたかの女性だった。 「ラウラ」は彼の姿を見るなり反射的にサッと立ち上がって踵を返しあっという間に塀の向こうへと消えた。 石段を駆け下りる音がする。 「ラウラ!ラウラ、逃げないでください!」 彼は悲鳴に近いような声で呼びかけた。 壁の向こうは石畳なのだろう、彼女の靴音はよく響いた、しかしそれは止まることなく遠ざかる。 「私はピエトロ・ビスコンティと言います、貴女に危害を加えるつもりはありません、どうか待ってください!」 彼が己の身分を明かした途端彼女の足音が止まった。 ビスコンティと名乗った彼がその音が止まったところまで夢中で駆け寄った。 「…ビスコンティ…様…?いつも、お手紙をくださる…?」 塀の向こうから、か細い声で「ラウラ」が応えた。 彼は感激にその身が震えるのを感じた。 かの女王が自分の名前を記憶していたばかりではなく、舞台の上の彼女の恋人役でもあるかのように自分に向かって話しかけくれたのだ。 「ああ、ラウラ…覚えていて下さったのですね…感謝にたえません」 彼はともすれば膝がくずおれそうなほど湧き上がる激しい感動をすんででこらえ、この壁の向こうへはどうやっていけるのかを見回していた。 しかしこの裏手には高い塀が延々と続いているだけで鉄の扉で閉ざされた搬入口もはるか遠く、簡単に中には入れそうになかった。 無常なことだと彼は深く嘆いた。 たったの壁一枚向こうに愛する女性がいるというのにその姿を見ることさえ叶わない、この忌々しい壁は非情に立ち塞がり彼女との間を決定的に隔てていた。 自分がここで彼女を引き止めていなければ、彼女はすぐにでも逃げ去ってしまうだろう。 「ラウラ、どうぞ私を蔑まないでください、貴女がいるとは知らなかったのです、無論、強引に貴女の姿を盗もうなどと企んだのではありません、ただ少しでも貴女の近くで、貴女を想いたかっただけなのです、どうかこの非礼をお許しください」 彼は彼女の体温さえ感じない冷たい壁にそれでもすがりつくようにして許しを乞うた。 「…ええ、わかっております、貴方のお手紙はいつも拝見させていただいております、少なくとも、貴方様のお人柄は、汲んでいるつもりです…」 感情を切り離したような抑揚のない声でそれでも彼女は彼を許した、 かといって彼を決して軽んじているわけではないのだということは理解できた。 彼女は他者との接触を極端に恐れているのだ。 「ではどうか、あとたった一目でいい、貴女の姿をどうか私の目に映させてください、いけませんか?」 「ええ、いけません、いけません、どうぞこのままお引取りください」 彼女の無慈悲な言葉に、彼は心臓が握り潰されそうな悲しみに捕らわれた。 「なぜその様な冷たいことをおっしゃるのです、私の気持ちを、手紙を読まれていたのならばご存知のはずだ、なのに貴女はこの憐れな男に一辺の同情すらかけてはくださらないというのですか?」 その声には悲嘆の色も露だった。 「…わたくしは、とうにお返事いたしました、どうぞ今生で逢いまみえる望み捨てませと」 「ああ…ラウラ…」 彼はあまりの悲しみにとうとうその場に膝を着いた。 「わかってください、私の思いを、もしこの卑しい右手が貴女に触れようものなら私はこの左手でそれを切り落としましょう。神に誓って、貴女を怖れさせたりはいたしません、ですからどうか、ただこの目にその美しい姿を映すことだけお許し願いたいのです」 彼はいつになく自分を抑えられなかった、このような好機が再び巡ってくることなどありえないと分っていたからだ。 「…こうして、お話しているだけでは満足できませんか?」 「出来ません、出来ないのです、ああ、私はこうして愛しい貴女にお声をかけていただいただけでも万人が羨む幸運児でしょう、なのに私の心は今ひとたび、その美しい姿を見ないではいられないと叫んでいるのです、贅沢に過ぎるということはわかっています、それでも…」 「わかっていただけませんか?どうしてもいけないのです、わたくしは…」 壁の向こうから聞こえるともすれば途切れてしまいそうな「ラウラ」の意気地のない言葉に彼は鼻白んだ。 「なんだとおっしゃるのです!私から貴女をそうまで遠ざけるものは、この忌わしい壁だけではないのですか?一体なにが貴女をそこまで頑なに縛り付けているというのですか」 「なにも、なにもわたくしを縛り付けてはいません、ただわたくしは、貴方のような方にそれほどまでに思っていただく価値のある女ではありません、どうかそれをお察しください」 「いいや、貴女は女神だ!この世で最も価値のある女性だ、なのに何故ご自分を貶めるようなことを言われるのです?」 その気勢に押されたのか「ラウラ」も今度は強くはっきりとした声で告げた、幾分怒りを含んでいるかのように。 「わたくしを女神とおっしゃいました、それでは貴方はその女神の頼みを聞き入れられないとおっしゃるの?」 「私の願いを叶えてくださるのなら、私はこの先、一生を善行に捧げましょう、そして尊い貴女に酬いることを誓いましょう」 「ではわたくしが悪魔だったらどうなのです?」 「それならば既に魂は売り渡しました、貴女の美貌という悪魔に」 しかし「ラウラ」の返事は返って来なかった。 「ラウラ!」 不安に狩られた彼は壁の向こうにむかって呼びかけた。 ややあってやっと返ってきた彼女の声は弱々しくともすればすすり泣いているようでさえあった。 「…なぜ、そこまでおっしゃるの?わたくしは、違うのです、貴方が思うような女ではないのです、本当に…、その切なる願いさえ叶えて差し上げられない無力なわたくしのことなどもうお忘れくださいませ、どうか、どうか…」 「出来ません!もう私の心は貴女に捧げてしまったのです、忘れろとおっしゃるのならいっそ死ねと言ってください!心をなくして人は生きてはいけないのです、たとえ貴女が天使でも悪魔でも、そして、貴女が言う私が思うような女性ではなくとも…」 だが、彼の切なる願望に対し、「ラウラ」が返してきたのは今度は言葉ではなかった。 頭上の壁の上を越えて、小枝が彼の足元に落ちてきた。 それは先ほど彼女がその指先に持っていた月桂樹(ラウロ)だった。 彼はそれを拾い上げると、もう一度壁に向かって彼女の名を呼んだ。 だがそれは沈黙したままであった、だが彼女の去る足音さえも聞こえない、まだいるはずなのに。 「おい、あんたそこでなにしてるんだ?」 先ほど彼女が歌っていた場所から見知らぬ男が声をかけた。 「そこに彼女が…」 とっさに彼は答えた。 だが男はつい、と壁の向こう側を覗いて首をかしげた。 「誰がいるって?誰もいやしないよ」 「そんなはずはない!「ラウラ」がいたんだ、立ち去る音は聞こえなかった、貴方も声を聴いただろう?」 その問い掛けに、男はますますいぶかしげな顔つきをして、この彼を狂人でも見るような眼つきで見た。 「ついさっきからあんたが何か言ってるのは聞こえてた、だから来てみたんだが、女なんて見なかったし声もしなかったぜ?あんた夢でも見てたんじゃないのか?」 彼は手の中の月桂樹の小枝に目を落とした、これを投げたかの女性は確かに存在したはずだった、存在しない者が投げて寄こすはずがない。 「そんなはずがない!そこに彼女がいただろう?」 「いや、誰もいない、第一こっからはこっちの裏庭全体が見えるんだぞ?よほど足の速い女でなければこんな一瞬で見逃すはずがねえや」 そんなまさか…彼女は本当にかき消えるようにしてその姿を消したというのか? ではこの小枝を投げてくれたのは幻だったとでも言うのか? それともこの月桂樹が見せた幻影だったのか? 彼女はこの月桂樹(ラウロ)の化身だったとでも言うのか、彼女の優しい名はこれにちなんだものだとでも言うのか。 「それよりあんた、こんな所にまで勝手に入ってくるんじゃねえよ、さっさと出て行きな、さもなきゃ警備員を呼ぶぞ」 塔の上の男がこの不審者に対して声を低くして警告した。 彼はその声を半分上の空で聞いた、だが体だけは男の警告に従って素直に出口へと向かっていた。 それこそ雲の上を歩くような不安な足取りではあったが。 「ラウラ」は消えた、文字通り、本当に消えたのだ、幻だったなんてあり得ない、その証拠がこの手の中にある。 誰かが言った、彼女はこの世のものではないのだと、彼は今それを目の当たりにした。 「…もっと警備をしっかりするようお願いしますよ」 目の前のカウチに凭れるように崩れた恰好で幾分コケティッシュに座る美女がその姿に相応しからぬ不貞腐れた体で言った。 既に窮屈なコルセットや邪魔なクリノリンなどは外されゆったりとした薄絹の衣一枚である。 だがその声はまったくもってこのような美しい女にあってはならない男の声であった。 「どうした?また誰か侵入者でもあったのか?」 脚本家にしてこの劇団の創立者がこの美しい女性の姿を借りた男に尋ねた。 「ええ、姿を見られましてね…幸い歌の練習中で地声は聞かれてなかったんで助かったんですけどね…あと舞台美術の彼が機転を利かせてくれたおかげでどうにか穏便に逃げられましたけど」 「人気稼業も楽じゃないな」 脚本家の男はそう言って苦笑した。 「笑い事じゃないですよ、第一、人を騙し続けているだけで、これでも辛いんですから…」 いくらか捨て鉢な調子で呟いて、美女は沈黙してしまった。 「わかった、明日はもっと厳重にしてくれるよう劇場側に頼んでおく、それよりいいかげん着替えたらどうだ?いくらこの個室に人の目がないと判っていてもいつどこで同じような目に合うかわかったものじゃないんだからな」 脚本家の提言に、美女は立ち上がると大胆にもさっさと身につけていた薄絹のドレスを脱ぎ捨てた。 脚本家も慣れたものなのかそれを一顧だにせず再び草稿に目を落とした。 「もし、今、「ラウラ」が本当は男だって、ばらしたらどうなるんでしょうかね、…例えば、あのいつも恋文を送ってくる人とか…」 気弱に呟きながら男物のシャツのボタンを留めている彼の足元に、とび色の長い髪の鬘がまるで水面を漂う水草のように無造作にうねりひろがっていた。 「…冗談抜きで殺されるかもな…「ラウラ」に身勝手な幻想を抱いているものはいまや数多いからな…」 実際それは考えただけでも大変なことだった、第一男が女の振りをして舞台に上がっていることだけでも立派な偽証の罪だ、それもかの人気女優であればなおさらのこと、だまされた人々の怒りは想像するに余りある。 よもやこんなに「彼女」が人気を博するなどとは思ってもいなかったこととはいえ、最早ここまで来て後戻りなど出来はしないのだから。 「…あの人なら…殺されやしないだろうけど…でも、絶望して本当に死ぬかも…そうなったら…」 そこまで言うと言葉を詰まらせた。 「ラウラ」の罪の重さに今更ながら恐怖と後悔を感じずにはいられなかったのだ。 彼には忘れることが出来なかった、あの、幻のように儚げで夢のように美しい、塔の上で歌う彼女の姿を。 彼はその日から、切なる思いを込めた手紙を送るのをやめた。 そうなのだ、彼女はこの世のものではないのだ、それがどういうことなのか説明と理解に及ばなくともこの感情は正しかった、彼女はなにがあろうともこの世のどんな男とも結ばれることはないのだ、と。 彼女はその悲しみをこの小枝に秘めて投げ寄こしたのだから。 彼はそれでも彼女を思い続けることだけはやめなかった、そしていつのときも舞台の上に立つ「ラウラ」をかかさず観に訪れた。 そして彼女があの日確かに自分にくれた月桂樹の小枝を、若くして病で急逝するまで後生大事に持ち続けたという。 ただ彼が早世したことに精神的な衰弱が大きく関わっていなかったかといえば誰にも否とは言えないであろう。 壁の裏で舞台美術の人に必死こいて「いないといって!いないといって!」とジェスチャーしている姿を思うとなんだかおかしい |