【影の女】


警備員の目をすり抜け、「彼女」の居る楽屋までは誰かに見つかって追い出される不安はまず無かった。
これでも泥棒やスリ、恐喝に博打に賭けボクシングといった裏社会にその身を染めてきた人間だ。
強面で目立つ外見はしているが人目を避けて行動するのには慣れている。

さすがに今日は公演日を挟んだ日曜の休日であるためか、そっと覗いた舞台の上では大道具の調整や修復、吊り物の位置確認、ライトの調整などが行われていて忙しそうだ。
さて、肝心の役者たちは今頃どこで練習をしているのだろうか?
もちろんこの男の目的は演舞の女神「ラウラ」。
これまでにも散々その柄に似合わずファンレターの数々や、花や、まっとうな手段で手に入れたわけではないにせよどんな女でも喜ばないはずがない宝石や毛皮を送ったりしたが、いずれも「ご厚意には大変感謝いたします、ですが劇団の方針によりお送りいただいた高価なお品はお受け取りすることが出来ません、なにとぞこの非礼をお許しください ラウラ」といかにも女性らしい繊細な筆跡で書かれたカードと共に返送されてきた。花とファンレターだけは受け取ってもらえたらしいが。
余談だがこの「ラウラ」直筆のカードは男の宝物になっている。

しかし長いことおおっぴらに自慢できる人生を送ってこなかったこの男がなぜ今更「ラウラ」になど興味をもったというのか?
偶然、そう、それはまったくの偶然だったのだが、ある日ひょんなことから悪友に貰った舞台のチケットが手元にあった、丁度これといった仕事もなかった日だったので暇つぶし程度に「巷で大人気の女優」とやらを見てみようじゃないかと思ったのが切っ掛けだった。


その日、男は舞台の上の女神に一瞬で恋に落ちた。


以来、男の「あまり真っ当でなはい」稼ぎは生活費の以外のすべてが「ラウラ」の姿を見ることに当てられた。
もともと腕っ節が強く裏街道を歩いてきた身分であれば怖いものなどだんだんと無くなっていくらしい。
男は遠く離れた座席から愛しい「ラウラ」の姿を見るだけに飽き足らず、こうして無謀かつ大胆にも現在かの劇団が公演を行っているこの演舞場に忍び込んできたのである。
無論、目的は「ラウラ」の姿を近距離で盗み見ること、それからもしもっと欲深くあれば直接この手で彼女に触れたいとさえ考えていたのだった。

ふと、とある控え室のドアの前を通ると中から途切れがちだが確かに澄んだ女の歌声が聞こえた来た。
まさか。
男はにわかに高揚した、ひょっとしたらこのドアの向こうに居るのは「ラウラ」かもしれない。
オークの一枚板の重厚な扉に遮られている所為で声の主まで判然とはしなかったがてっきりそうだと男は決め込んだ。
そしてもし彼女が一人で居たなら?
男の頭をどす黒い感情がもたげるが何せ相手は演舞の女神、まさに「テルプシコラ」なのだ、中には本当に彼女を天使だというものも居る、いやそれはいくらなんでも馬鹿馬鹿しいとしても、彼女ほどの女性が有する神聖な領域を一人の男の欲望で侵していいものなのだろうか?
この男にしては珍しく意気地の無い考えがめぐり躊躇が無かったといえば嘘になる。
だが遠い客席の向こうから眺めるだけではなく、もしかしてこの扉の向こうに居るのが本当に彼女だけならそれこそ再びありえようもないチャンスなのだ。
逃す手はない。

男は辺りに人が居ないのを確認し、そっと音を立てないようにドアノブに手をかけた。

わずかな隙間から部屋の中を覗き見る。
金色に輝く豪奢な衣装をまといごく小声で自分の歌う歌にあわせて軽いステップを踏んでいる女の背中が、何度も狭い視界に入っては消え入っては消えを繰り返していた。
あの衣装、間違いなく「ラウラ」だと男は確信した。
他に室内に人がいる気配は無い。
だが突然押し入って彼女にそれこそ劇場の外まで聞こえるような悲鳴を上げられては困る、
ここはいったん関係者を装うのがいいだろう。
再びそっとドアを閉めると今度は丁寧にノックしてから堂々とドアを開いた。

ノックはされたがこちらの返事も待たずに開けられたドアに驚いて女が振り返る。
そして無遠慮に室内に入り込んできた凡そ紳士的とは言い難いタイプの男の姿を見る。

彼女は確かに「ラウラ」のために作られたドレスを身に着けていた、昨日の公演も見に来て記憶していたのだから間違いないはずだった。
あの金糸がふんだんに縫いこまれた白い薄絹の華美で豪奢な女王のためのドレス。
だが「ラウラ」のようにその髪は美しく結い上げられることなく無造作に纏められただけで、その髪色もあの品のいいとび色とは違い限りなく赤に近い色合いであった。
そして顔も全然違う。
だがどこかで見た事のある女だと瞬間的に感じた。

「誰!」
目の前の「ラウラ」の衣装を着て踊っていた女が一転、警戒も露な口調でとっさに後ろに下がる。
「ラウラ」ではなかった…だがこの女…ああ、どこかで見たことがあるのは当然だ、「ラウラ」の舞台にしょっちゅう出ていた、はず…。
だが名前も覚えていなければ今回の舞台で果たした役もあまりこれといった印象に残っていない。
それは当然かもしれない、自分は「ラウラ」だけを見ていたのだから。恐らくは劇場にいた過半数の人間と同じように。

「あ、…いや、失礼お嬢さん、部屋を間違えたようです」
男は内心落胆しながらも穏便に事を運ぼうとこの劇場の関係者のフリをして早々に退出しようと後退りした。
この女に疑われて騒がれでもしたら、下手をすれば人が集まってくるどころか警察沙汰にもなりかねない。
なおも女は不審を露にし、仇でも見るような目つきでこちらをあからさまに警戒しつつ投擲用にか手近にあったランプをその手に掴んだ。
まずい、と思った男はとっさに言い訳を考えた。
「俺は、その、劇場の裏口の警備関係の者なんだが…その、さっき上の人から明日の警備について団長に言伝を頼まれて…あの、団長のお部屋はどこでしたっけね?」
男は引き攣った愛想笑を浮かべて何とか彼女が物をこちらに手当たりしだい投げだす前に不審を解こうと必死になった。
ところが赤毛の女は指先に血が通わなくなるほど強く握り締めていたランプから手を離し、警戒の表情をやめ、無表情にこちらを見返してきた。
男は誤解がとけたと思い、ホッと軽いため息をついて張り詰めていた肩を降ろした。

「…「ラウラ」ね?」

赤毛の女は先ほどの恐れはどこやら、急にふてぶてしささえ感じるような余裕の表情になり、突然核心を突いてきた。
さすがに男の心臓も跳ね上がった、完全に見抜かれている。

「…あ、いや、違、本当に、俺は伝言を団長さんに届けに…」
無駄な足掻きかもしれないと思いつつも苦しい言い訳を続ける男を半ば見下すように赤毛の女は軽くため息をついた。
「言い訳は結構よ、大体これまでにあなたと同じ目的で勝手に忍び込んできた人がどれだけ居ると思ってるの?」
よく見ればこの赤毛の女、「ラウラ」ほどではないにせよ、なかなかの美人であることに気が付いた。
それは彼女がどういうつもりかは知らないが「ラウラ」の美しい衣装を着込んでいるからではない。
燃えるような赤毛とそれに相反するアイスブルーの瞳の色が一種彼女を人間外の、例えば妖精かなにかのように思わせた。
そう実際、誰も「ラウラ」以外に目を向けようとはしないが、もともとこの劇団は実力派で個々の演技力もかなりのもの、その上さしもの女優の卵であるからには思いの外、顔立ちの整った女性が多いのだ。
だがそれをまったくスポットライトの当たらぬ舞台端に追いやってしまっているのはだれでもない、あの「ラウラ」なのだ。

赤毛の女がどこか皮肉めいた口調で捨て鉢に言い放つ。
「彼女を探そうったって無駄よ、どうやったって見つかりっこないわ、なんせ彼女は「この世の者」ではないんだもの」
赤毛の女はその美貌をゆがませて醜悪な笑顔でクスクスと笑って見せた。
この世の者ではないとはさすがにからかわれているのだろうが…それにしても男は彼女の態度に奇妙なものを感じた。
「…君は、その、もしかして、「ラウラ」が嫌いなのか?」
そんな質問がつい口をついて出た後、男はバカな質問だったと己の額を掌で覆った。
当たり前ではないか、「ラウラ」の所為で、今こうして目の前で見ている分には十分「美人」の域に入るこの女性ですら常に端役で、しかも自分だって彼女の名前など知らなかったのだから。
赤毛の女が声を上げて笑い出した。
「ええ、そう、「ラウラ」なんて大っ嫌い、でもね、それは私だけじゃないわ、うちの劇団員は全員嫌ってる、信じられないでしょうけど「ラウラ」自身も「ラウラ」が大嫌いなのよ」
彼女はそういいながら雲の上でも歩くようなふわふわとした軽い足運びで男の元に近づいてきた。
「このドレスも…あの女のだけど…一度くらい私だってこんな綺麗なドレスを着て舞台の中心に立ってみたかったのよ」
女が自嘲と本物の寂しさの入り混じった声でつぶやいた。
しかし男は赤毛の女の言葉にあっけに取られていた、このような端役に追いやられて出世のチャンスが掴めない者が「ラウラ」を妬んだとてある種当然の感情かもしれないが、
「「ラウラ」自身ですら「ラウラ」が大嫌い」とはどういう意味だろう?
いや、意味なんてないのかもしれない、この赤毛の女、嫉妬からおかしなことを口走っているだけなのではないだろうか?

「分かったらさっさと出て行きなさい、さもなきゃ私の悲鳴一つで警備員か腕っ節の強い裏方が即座に駆けつけてくるわよ」

彼女は突然キッと眉を吊り上げ恐れなど知らぬかのように男の顔を真正面に立ってその目を見据え啖呵をきった。
男の方としても目的は既にばれているのだし、自分が今すぐに立ち去ればとりあえず警備員を呼ぶつもりが無いのなら彼女の言うとおりにした方がよさそうだ。
「わかった…すまない」
この男にしては珍しく、彼女の気勢に押されたわけではないが、何か複雑な人間模様の片鱗を見せられ毒気を抜かれてしまったこともあり素直に踵を返した。

ところが部屋のドアを出ようとした瞬間、ふと、公演時に配られるプログラムにあった劇団員の写真と彼女の顔が何の偶然か男の頭の中で繋がった、そして名前を思い出した。

「あ!…まてよ、君、たしか、そうディノッゾ…そうだ、君はクラウディア・ディノッゾだ!な?そうだろ!」
チンピラ風の男は思いの他、記憶力がよかったらしい、この赤毛の女の名前を言い当てた。
赤毛の女、クラウディアはその目を驚きに見開かせた。
まさか、「ラウラ」以外のこの劇団の役者など真っ当に覚えている人がそれほど居るとは思っていなかった。
まして彼女目当てで不法侵入までしてくる熱狂的な「ラウラ」ファンの男が自分を知っているなんてまずありえそうにないのに。
「おれ、あんたの赤毛、色っぽくて好きでさ、そうだよ思い出したよ、前の舞台でもやっぱり報われない恋をしている女の役やってたろ!?いやぁ、逢えて光栄だわ!」
男は自分の立場を忘れて屈託の無い笑顔で嬉しそうに話す。
クラウディアと呼ばれた赤毛の女もまさか自分のような端役の名前を知っていてくれたものが居たことに一瞬胸が躍った。
自分たちはいつだって役者としてどんな端役でも汚れ役でも手を抜くことなく、全身全霊をこめて演じてきたはずだった、ここに来て以来、誰もそれを認めてはくれなかったが。
だが中にはいたのだ、「ラウラ」だけではなく見ていてくれた人が。

「…シアラ…」
「え?」

クラウディアと呼ばれた赤毛の女がつぶやいた。
「クラウディア・ディノッゾはこっちでの芸名…私、本当はシアラ・オコナーっていうの、生まれはアイルランド…」
彼女はそこまでいうと顔を伏せて再び沈黙してしまった、つい余計なことを話してしまった気恥ずかしさのためか。
「…シアラ、きれいな名前じゃん」
意外にも男はそれを真摯に聞いていたようだ。

彼女が顔を再び上げると、いかにも無骨い男の顔に子犬のような屈託の無い笑顔が浮いていた。
そのことにまた少し、驚いた。
「それじゃあ、シアラ、ニ度とはあわないだろうけど…忍び込んだのは褒められたことじゃないのは判ってる、でも君に逢えてよかった、今度の舞台、君を応援するよ、俺の名前は…と、言わない方がいいな、あとで通報されたら厄介だしな」
男はそういうと会心の笑みを一つ残し扉の向こうに消えた。
数秒たってから、シアラが恐る恐るドアを開いてみると長く続く廊下にはもう人影は無かった。


千秋楽まで今回の舞台は好評のまま幕を閉じた。
そして打ち上げといった精神的余裕に浸る時間はわずかで、脚本家兼舞台監督と「ラウラ」以下の団員は劇団宛に大量に送られてくる「ラウラ」へのファンレターの仕分け処理に終われる羽目になる。
その中に一枚だけ、あまりきれいな字とは言いがたいが明らかに「ラウラ」宛では無い手紙を脚本家が見つけた。

「これは君にだ」
そういって渡された手紙を手にして彼女は驚きの表情を見せた。
「ラウラ」が人気になってからというもの、他の役者宛にファンレターが送られてくるなんてことは、最近では本当に本当に珍しいことだったから。
手紙には「クラウディア・ディノッゾ」と書かれている、差出人の名前は無い。
彼女はそっと手紙を開いてその内容に目を通した。



親愛なるクラウディア・ディノッゾ

君の演じた、美女に心を奪われて不貞を働く夫の貞淑な妻の役は素晴らしかった。
ヒステリックに感情を露にしない分強く深く心に根ざした燻るような怒りがよく表現されていたよ。
夫の美女への愛の告白を影でこっそり聞いてるときの君の表情は無表情なんだけどゾッとするような凍った目だった。
よく演技であんな目が出来るものだと驚いた。
きっと現実でも同じ立場の女はみんなああいう目をするんだろうなって思った程だよ。
とても役を演じてるだけとは思えなかった、それくらい迫真の演技だったよ。
役柄の君が死を選んだときは舞台なのを忘れて止めに入りたかったほどだ。

実際君は素晴らしい女優だ“シアラ”、君の活躍を誰より願っている。

君のファンより



彼女は目を通した後思わずその手紙を胸に抱きしめた。
あの彼だ、「ラウラ」目的で忍び込んできた不埒な輩、だけど彼女の本名を知っているのは劇団の外では彼だけ。
彼の名前を聞くのを忘れたのが唯一悔やまれた、手紙にも彼の名前は明記されていない。
だけど、あの舞台で「ラウラ」だけではなく、自分を見ていてくれた人が居たことに、少なからず彼女は胸が熱くなるのを感じた。
そう、彼の手紙にあるとおり、自分は愛する夫に裏切られた悲しい妻の役を精一杯演じきったつもりだったから。

ここに居る以上、自分にヒロインの座が回ってくることはありえない。
だけど自分を見ていてくれた人は確かに居たのだ。

彼女はそれにもう一度目を通した後、ここ最近はまるで無かったが、劇団設立当初イギリスで活躍してた頃にもらったファンレターと一緒に大事にしまいこんだ。



しかし、彼女も思いがけないことに、その後も公演毎に“クラウディア・ディノッゾ”宛に短いながらも必ずファンレターが届くようになったという。




しかし「シアラ」も「オコナー」も典型的アイルランド名だあ…そのうえいくら活動場所がイタリアだからってディノッゾって…脳の容量が足りないといつもこうなる





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