【髪きり屋】 「おい」 幼い声に似合わぬ横柄な口調で呼びかける。 「はい?」 だが佐藤はそんなことは慣れたもので、穏かな笑みを見せながら彼の主君を振り見る。 「お前、えりあしが少し伸びてきたんじゃないか?」 この幼い主君にしては珍しく、含みのあるやけに楽しそうな表情でそれを指摘する。 「え?ああ…そうですか?…そう、かも…」 佐藤はハッとした表情で己の首筋に手をやった、だが確かに多少伸びているかもしれないが自分の手に伝わる感覚ではそれほどでもないように思う。 よもや松下からそんな指摘を受けるとは思いもよらなかったが、この他人の身だしなみに対しては完全に無頓着な幼い主君があえてそう言うのだから自分が思うよりよほどみっともなかったのかと少しうろたえる。 元々、佐藤は身だしなみには人一倍気を使う方であったし、少なくとも他人を不快にさせるようなずぼらな真似はしないよう気をつけていたつもりだったのだが…。 「しょうがないな、僕が特別に切ってやろう」 松下の申し出に、佐藤のただでさえ美しい弧を描く男性にしては大きめの瞳が更に見開かれる。 「…メシアが…?」 床に新聞紙を広げてその上に座らせる。 散髪の道具は裁縫用の裁ちばさみ。 ケープの変わりにバスタオル。 まるで「ママさん床屋」の出で立ちそのもの。 「なんだ?僕の腕を信用してないのか?」 「…い、いえ、そういうわけでは…」 明らかに緊張して固まっている佐藤の背に向かって松下が変わらずニヤニヤとしながら語りかけた。 佐藤の心中など判りきっている、松下の問い掛けを否定しながらも本気で信用などしているわけがない。 第一、この松下が誰かの髪を切ったことなどあるわけはないし、確かに彼は指先は器用ではあるがそれとこれとは話が違う、腕を信用しろといわれても土台無理な話である。 だが悲しいかな、佐藤はこの幼い暴君の僕、逆らえる訳もない。 精々出来ることといえば松下のこの気まぐれの結果が取り返しの付かない酷いことになりませんようにと祈るばかりだ。 松下の指が彼のえりあしにそっと触れる。 僅かに伸びた髪を一房、その指の間に挟んでハサミを入れる。 ショキ。 小さくも心地よい音を立てて髪の先が切り落とされる。 ぱらぱらともっと微かな音を立ててそれらが新聞紙の上に散らばる。 それが一定の間を置いて繰り返される。 相変わらず緊張に体を強張らせている佐藤の後ろに立って調子よくハサミを動かしながら松下は至極ご機嫌であった。 本当に、松下にしては珍しく鼻歌さえ漏らしている。 奇妙な時間がやけに長く緩やかに流れた。 「痛ッ!」 突然、松下が小さな悲鳴を上げた。 「メシア?」 その声に佐藤が驚いて振り返る。 松下が反射的に握り込んだ指先をそっと広げると、小さく細いその手の人差し指の先が僅かに切れて血が滲んでいた、ハサミで誤って切ったようだ。 「…あ、大丈夫ですか?今薬箱をお持ちしますから待っててください」 ケープ代わりのタオルを外し、それに付いた己の髪を払うとそれで松下の血の滲む指先をそっと覆った。 大して深くは無さそうだが彼が怪我をすること自体があってはならないことなのだ。 慌てて立ち上がり薬箱を取りに行こうとした佐藤の腕を、松下が強く掴んだ。 小さな主君は、何故か真剣な顔で佐藤を見上げていた。 「…メシア?」 主君の奇妙な行動に戸惑う。 松下は、包まれた指先のタオルを振り落とすと、まだ血の滲むそこを佐藤に向かって突き出した。 「薬は必要ない、お前が舐めとれ」 その表情からは先ほどまでのご機嫌っぷりは完全に消えていた、挑みかかるような冷たい視線。 「…は…?えっ?」 松下の発言にも戸惑ったがそれ以上にこの幼い主君の、その肉体年齢にそぐわぬ大人びた、酷薄ささえ感じさせる表情に驚いて真っ当な返答も出てこない。 「ほら」 だがそんな佐藤には構う事無く、更に指を差し出して強く要求する。 幼いその目に見え隠れする、確かな「情欲」。 「…そんな…あ、あまり衛生的じゃありませんよ…すぐ手当ていたしますから…」 松下の威圧的な視線に耐えかねたように長い睫毛を伏せて顔を逸らせた佐藤がつかまれた腕をやんわりと外そうとする、だがそれは許さないとばかりにその手に更に力が込められる。 「僕の血が汚いか?」 僅かにトーンの落ちた声は最早脅迫と大差ない。 「…だ、だからそういうことじゃなくて…」 「さあ」 有無を言わせない、これは命令だ。 しばし沈黙が流れた、だが負けるのはいつも佐藤だ、そもそも勝てる相手ではないのだ。 まるで彼を恐れるかのようにやっとの思いで手を伸ばし、傷を負った主君の小さな手を恐々両手で包み込む。 突き立てられた指先に、そっと舌を這わせると血の味がじわりと伝わってきた。 松下の血の味。 佐藤にとってみればまるで精神を陵辱されているような感覚だった。 これを屈辱だといえば主君たる彼を卑しい存在に貶めているようではばかられたが、だがそう感じているのは事実だ。 目の前の彼の、眉を寄せ明らかな苦渋の現れた顔を見て松下は至極満足そうに口の端を吊り上げた。 僕ではなく奴隷のような徹底した服従的な行為を強いられ、それをやっとの思いでやり遂げて、これでもう開放されると思って手を離そうとした佐藤の目に、床に落ちていた裁ちばさみをもう片方の手で拾い上げる松下の姿が映った。 松下がその切っ先を己の頬に向けて、薄い皮膚に覆われた柔らかいそこに何のためらいもなく傷を付けた。 再び赤い血がじわりと滲む。 「ああ、ここもだ」 傷付いた頬を指差して、松下は笑っていた。 佐藤の背中をある種の嫌悪感と同時に絡みつく蛇性のような背徳的な淫靡さがゾクリと這い上がる。 矛盾した二つの感情に理性がかき乱されるのを感じる。 混乱し、ほとんど停止状態にある彼の頭とは相反して気が付けばその体は床に膝を着いてほとんど機械的に血の滲む松下の頬に唇を寄せていた。 僅かに息を荒げて、それを舌で丹念に、あるいは執拗に舐めとる姿は最早奴隷を通り越して卑しい犬のようでさえあった。 松下はそんな佐藤を満足げに横目で眺めていた。 だが佐藤はふと正気に返ったかのようにその行為を止めた。 ぐっと眼を閉じ、己を戒めるかのように首を振って幼い主君から離れようとした。 だが松下は素早くハサミを今度は佐藤の首筋に当てた、暗に「逃げたら殺す」と脅しでもしているかのように。 そして松下は先ほどと同じように、今度は佐藤の首筋にその切っ先をつきたてた。 チクッっとした痛みが走る。 その痛みに反射的に上体を引いた佐藤に向かって松下が淫らがましい笑みを浮かべて言った。 「お前もだ」 今度は松下の舌が佐藤の首筋に近づいてくる。 松下の蛇性に絡みつかれた佐藤はもう逃げることは叶わなかった。 松下は彼の小さな傷を愛撫するかのようにねっとりと嘗め回した。 続いて松下のハサミに切っ先は、佐藤の鎖骨付近に向けられる。 そして己の首筋にも。 彼の手のひらにも。 己の腿にも。 彼の耳にも。 触れていい場所を示す小さな赤い印を松下が互いの体のありとあらゆる所に次々とつけてゆく。 気が付けば佐藤の膝の上に松下が跨るようにして抱き合い、互いの血を啜り、蛇の交尾のように絡みあっていた。 既に理性という名の歯止めは効かない。 僅かに塩気を含んだ血の味が脳を支配し麻痺させる。 静かな昼下がりの一室に、二人分の荒い呼吸と時折漏れるため息に似た小さな声だけが聞こえる。 松下が望んだ背徳。 佐藤が逆らえなかったあってはならない情欲。 その二つが図らずも重なったどこか非現実めいた自堕落的で淫蕩な空間がそこにあった。 どれくらいそうしていただろうか。 突然、松下の首筋に唇を這わせていた佐藤の動きが止まった。 松下の肌から唇を離し、荒い呼吸を飲み込むように息を詰めた、僅かに残った理性の欠片が警告の叫びをあげたのだ。 主君である松下にこんな風にして触れるべきではない、ましてやこの情炎に任せて彼を抱くなどということは、絶対に、あってはならないと。 彼は松下の小さく細い両肩を手で掴んでもぎ離した。 松下の目が拒絶された驚きに見開かれる。 だが佐藤は俯いたままそんな松下を一瞥することもなく無言で立ち上がり、部屋を出て行こうとした。 「逃げるのかよ!」 佐藤の背中に向かって発せられた松下の罵倒はどこか悲鳴じみていた。 一度だけ、ひどく悲しそうな表情で佐藤が松下を振り返る。 「…薬箱を、取って来ます」 それだけ言うともう二度と振り返る事無く佐藤は部屋を後にした。 |
07年の12月に書いたもの。
('13.11.9再UP)