S  の  告  白




メシアへ。


これからお話しする私の想いは、
決して言葉として語られることは無いでしょう。
白日の下にさらされる日など来ないとわかっていても、心に秘めるには大きすぎ、そして懺悔せずにはいられない。

届く事の無い告解をどうぞお聞きくださいませ。

メシア、
私は一度貴方を裏切り、貴方の死を、目にしました。
今は、貴方への許しを乞う訳でなく、いえ、それについては私も死んだものとして、今は過去を捨て、貴方のために生きると決心したのですから、私のこの身をどうしようとそれはもう貴方の一存に任せるばかりです。
私がお話したいのは、そのことではなく、誰にも知られず、新たに私が犯している罪についてなのです。




無礼をお許しください。
あの時、貴方が血を流して地に平伏した姿を見たとき、
それまで得体の知れぬ化け物のように思っていた貴方が、一人の生きている人間なんだと、初めて思えたのです。

それと同時に、その一人の人間を死に追いやった罪悪感よりもっと大きな、かつて、私の中で封印したある「禁忌」が再びおぞましくも目を覚ましてしまったのです。


あれは、私がまだ貴方より幼かった時分のことです。
私はそのころ、小さな昆虫などを捕まえては殺すのが大好きな子供でした。

私は幼少のあるとき蝶を捕まえました。
ふと思い立ってその翅を毟り取ってみますと、これがまるで違う生き物に成り果てたのです。
空を舞う蝶々の姿はあんなにも優美なのにこれは何でしょう?
あたかも幼虫期に戻ったかのようにうねうねと無様にその身体をのたうたせるその姿を不気味に思いながらもとても面白かったことを覚えています。
トンボを捕まえてはその下半身を引き千切って空に離しました、そうすると半身を失い不均衡になった体では上手く飛べず、狂ったようなめちゃくちゃな軌道を描きながら地に落ちます、地に落ちた半身のトンボはどうして死ぬ気配すら見せず地でもがいています、私はこれを見て満足していました、しかし同時にしばらく眺めていてもそれはそれは長い時間死に至らなかったことに大変な不満を覚えた記憶もあります。
小さな足の長いクモを捕まえては、その足を全て取り去ってみたり…。
そうして毎日のように昆虫を捕まえては残酷に殺したりしていたのです。

最初はそんな他愛の無い幼児特有の残酷さと興味だったのだとおもいます。
幼児の小さな生き物に対する残虐性は誰しもが当たり前に持ち合わせているのだと思いますが、
私の場合、成長することでそんな幼稚な凶暴性を失うどころかその虐待の対象が小さな虫では飽き足らなくなり、次第に大きな生き物に対照を移していくありさまなのでした。

やっと貴方くらいの歳になった私は、ある日偶然側溝で見つけた「ねずみ」(当時、溝鼠か何かだと思い込んでいましたが記憶に残るきれいな模様のある姿は、おそらくどこかで飼われていて逃げ出したかなにかしたペットのネズミ科の一種ではないかと思います、よし本当に溝鼠などであったら素手で掴まえようなどとずいぶん危険なまねでしたね(苦笑))を見つけ、追い回し苦労の末捕まえることに成功しました。
そして、親に黙ってライターを盗み出し、その「ねずみ」の尻尾を掴んで鼻先に火をつけようと思いました。
ところが、生きているものの体にはそうは簡単に火は付きません。
当然ですが、当時の私にはそんなことは判りませんでしたのでずいぶんいらいらして何度も挑戦したのを覚えています。
火を近づけられるたび気の毒なネズミは小さなそれでいて必死な叫び声を上げて力の限り暴れます、その姿を観ているのも十分楽しかったのですが、やはりこの生き物が火に包まれるところを見たかったのです。
何度目かに火で炙られたネズミはついに体を跳ね上げて焼け爛れた顔で私の手に噛み付いてきました、
痛さに驚いた私はそのネズミを反射的に思い切り壁に投げつけてしまったのです。
哀れなネズミは、壁にその体に見合う小さな血の飛沫と衣魚を残しずるずると地に落ちました、見ればまだ完全に死に切っておらず、断末魔の恐ろしげな痙攣を呈しています。
それは虫のそれなどとは違うはじめて見るものでした。
思いがけず、一つの命が消えゆく様を見た私は、それが完全に動かなくなるまで飽くことなく眺めていました。
そのときの例えようもない新鮮さと胸の高鳴りは今でも思い出せるほどです。

この頃から私の行動は次第にエスカレートして行きました。
もう小さな昆虫などには目もくれず、大きめの動物に標的を完全に移しました。
学校で飼われていたウサギの耳を手に持って力の限り左右に引き千切ったりしたこともありましたし、
やはり同じ飼育小屋の生まれたばかりの鶏の雛を足で踏みつぶしたりもしました。
小屋の動物が傷つけられる度に先生や大人たちは大騒ぎしましたが私にはそれがなぜなのかあまり理解が出来ませんでした。そして無論、私が疑われたことなど一度もありませんでした、だってこのこと以外に関しては、私はごく普通で模範的でやや貧相な少年でありましたから。

ある時などは校舎裏に住み着いた野良の子犬を、
当時同じ小学生たちが給食の残りなどを与えて誰ともなしに飼っていたその子犬を対象にしてしまったこともありました。
私も他の同級生と同じくたまに給食の残りのパンなどを与えたりして、傍目には他の子と同等に可愛がっていたように見えたかもしれません、いえ、実際にその愛くるしい子犬は子供心に愛着を覚えましたから当たり前のように私も可愛いと思っていたのでした。
にも関わらず、ある時、どういう訳かふと次の「遊び」はこの子犬にしようとこれも当たり前のように思い立ってしまったのでした、その矛盾した心理はいまだ理解が出来ませんが、それを実行に移したのは直ぐのことです、その日の夕刻、私は一旦家に帰ってランドセルを置いてから一人で子犬のいる校舎裏に向かいました、この誰もいない時間を選んだのは「悪いことをしている」と言うハッキリとした認識が有ったわけでは実はなく、ただ単に偶然のことでした。
いえ、勿論これが「悪いこと」という認識は多少なりともあったのでしょうが、それは本当に「多少」でありほとんど本能的なもので決して重大なものではなく、それにただこれは一人でやった方が楽しみを独り占め出来たからに他ありませんでした。
…よくもそんな無邪気なことでこれまで誰にも見付からなかったものだと我ながら不思議に思いますが。

いつものように何の警戒心も無く尻尾を振って近づいてきた子犬の腹部を私は躊躇無く思い切り蹴り上げました、鋭い悲鳴を上げ、まるでサッカーボールか何かのように宙を舞って地面に叩きつけられた子犬は内臓をやられたのでしょうか、体を何度か捻って立ち上がろうとするもののすぐ倒れこみ、
ついにはゴロンと仰向けになってしばらく四肢で不規則に宙を掻いていましたが血が口からあふれ出し、
やがて動きが急速に小さくなり完全に動かなくなりました。
私は大変に満足したのですが、次の日、その子犬を可愛がっていた同級生の女の子たちが集まって泣いているのを見たときにはさすがに「遊び」の対象にこの子犬を選んだことに僅かな後悔を覚えました、しかし、それは普通の罪の無い生き物の命を奪った罪悪感とは程遠いものであり、そんな小さな罪の意識よりあの命が失われる瞬間に見せる、死の舞踏の魅力の方が私にとっては何倍も勝っていましたから。
同級生たちの涙につられるようにしてこのとき私も実は涙を流していたのでしたが後悔の涙などでは決してなかったのです。
自分でも不思議だったのですがもそれとこれとは私の中で全く別物でありました。


そして学年が上がるにつれカッターナイフや彫刻刀などという格好の道具を手にするようになり、動物に対する虐待は収まるどころか次第に大胆さを増してきたのでした。

当然のように、人を傷つけたい衝動にも駆られるようになりました。

しかしこればかりはそうそう叶えられる筈がないことくらい幼い私にも判っていましたし、もっぱら妄想の世界でその欲求を満たす他ありませんでした。

しかし、その密かな「一人遊び」もついに露見する日がやって来ました。
その日、私は近所で捕まえた野良猫を、当時家の庭にあった火の付いた焼却炉に放り込んだのですが、それを偶然、父親に見付かって私は酷く怒られてしまったのです。

お前、なんという残酷なことをするんだ、生き物の命も、お前の命も、同じ尊い「命」なんだ、
むやみに奪っていいものではない、お前が今したことはとても悪いことなんだ。
もし、今焼き殺された猫が、猫ではなく大切な人であったらどうなのだ。
お前の父母だったらどうなのだ。
お前自身であったらどう思うのだ。

私は父に怒られて初めてこれが残酷なことなのだとはっきりと認識させられたのです。
急に怖くなってきました。
それでずいぶん泣いた記憶があります、
私があまりに泣くので父親は“反省したのなら、もうしなければいいのだよ"と言って返ってなぐさめてさえくれました。

それ以来私はこの「遊び」を二度としなくなりました。

やがて年頃になり、そういう残酷さを持った人間が世間では何と呼ばれ、社会的に非難の対象になることも知りましたし、
当時、「社会からの排他」をとても恐れていた私には、かつてその様な欲望があったことなど忘れ、いえ、実際には無かった事として否定し、人と変らぬ生活を送っていました。

ですが、私の中にあるこの暗い欲望は死んだわけではありませんでした。

やがて、大学生になった私はある女性と交際することになりました。
私はその女性を愛しく思いました。
痛がって、血を流してくれるからです。


しかし、彼女がやがて「行為」に慣れてしまうと、そういうことはなくなります。
私はそうなると途端に、あれほど愛しく思っていたはずの彼女に興味がなくなり、交際相手を取り替えることを考えはじめるのでした。
俗世間に言うサドマゾの関係(下品な表現をお許しください)のパートナーと行う行為には全く興味がありません、なぜならアレはあくまで「遊び」であり「お互いの利を得るためのもの」だからです。
まして、…こんなことは本当に口に出してはいけないのでしょうけれど、痛みを楽しむマゾヒストとよばれる対象を痛めつけることに何の意味がありましょう。
それらは彼ら彼女らにとって「喜び」であるのですから。
私は対象の者が本物の苦痛と恐怖にのたうつ様が見たいのです。
そんなことでしたから女性と交際をしてはしばらくしては別れまた新しい女性と交際を始め、次から次へとパートナーを変えていくのでした。
そういうことをくり返しているとやがては周りからあいつは処女が好きなのだと下卑たからかいの対象になったりもしました。
もちろん、私はその都度全力で否定しました。
しかし、真実、通常の男性の「処女性」に向ける興味とはやや異なっていてもその通りではあったのでしたが(苦笑)。
しかし自分自身、己がそんな暗い欲望の持ち主であることを認められず、興味をなくした女性と別れる度に自分の心の中でまで、…それはあくまで表層でしかなかったのですが、「別れるにふさわしい理由」をつけてそれを信じようとしていたのでした。

ある時、医療関連の本だったと記憶していますが。事故により大腿部から足を切断したとある男性の切断時の手術写真と部位の縫合面の写真、およびその快復過程の記載がありました。
私はこれを見たとき、たまらない興奮を覚えました、本物の血なまぐさささえ漂うような無残な切断面と引き攣れた縫合面。

私は妄想の中でこの切断面に爪を立て、ホンの少し肉を噛み千切り、骨の中心に犬歯を突きたてて、断面をさらした筋肉が苦痛に収縮する様を想像しては悦に入っていたのです。

そのときから、今度は不具者の短くなった手や、足が、私の興奮をかきたててやまなくなったのでした。
それこそ、進む道を医療方面にすべきだったと、道を誤ったと一時期は後悔したほどでした。

そんなことがあってもなお、私は自分の中の狂気に真っ向から目を向けることが出来ずにいました、
自分はまともな人間である筈だ、そうでなければいけないのだと、すんでのところで自分を押さえつけてきました。
無論これからも、そんな欲望は抑えていかなければなりません、ずっと、一生涯。



ですがあの日。


取り囲まれた警官に撃たれ、地に平伏した貴方を見たとき、
心の中に仕舞い込んでいたこの欲望がハッキリと、そうとわかる形で私の前に具象化したのでした。
それは私と全く同じ顔をした、「これが自分」と信じていた私と全く正反対の性質を持った、それでいて「真実」の私の姿でした。
その、もう一人の私は、血の海に横たわる貴方を抱き上げて愛しそうに眺め、
貴方の胸に開いた穴に舌を差し入れていました。

とても、愛しそうに。
いえ、実際にこれほど愛しい存在はありませんでした。
死んだ貴方の体がです。

命を失った体を抱きしめ、私は実感するのです。
こんな小さな体の中に、ありとあらゆる臓器が詰まっていて、そして、今さっきまで確かにあった尊いこの命が、たった一発の小さな弾丸により穿たれたこんな小さな穴一つで失われた理不尽さと悲しさと奇妙な喜びと爽快感と。

ああ、これが、誰かの手によってでなはく、この私の手で貴方の命を奪ったのだったらどれほどの喜びだったことでしょう。


私は、

貴方に仕える身として生まれ変わることを許されました。
ですから、もちろんこんな欲望は貴方の為に、そして自分の為に完全に抹殺しなければなりません、
信じていただきたいのは、たとえ私が狂い死んでも、この欲望を具現化させることだけはしないということ。


・・・しかし、今はまだ、血の海に横たわる貴方の姿を夢に見ます。

いつか完全に記憶の彼方へと消えてくれることを祈りながら、
それでも、私は、

例え夢であっても、その夢は甘く、それが今の貴方に対するなお継続し続ける裏切行為だと自覚しながらも、心のどこかで求め、あがき苦しみながら。


未だ夢を、見るのです。





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