うろうろしてます闇の住人



別に歩行者天国ではない道だったが何故か皆時々通る車にはほとんど意識を払わず道の真ん中を堂々と歩いていたりする、そんな危険意識の薄い道路だった。今のところ事故が起きていないのが幸いだ。
珍しく、魔術師の男を外出に誘えた佐藤ははっきり言えば浮かれていた。
この通りはさして長いものではないが酒屋から香水専門店、腕時計、有名ファッションブランドの店が数件並んでいて、ちょっとしたショッピングモールのようだった。
佐藤の目が並ぶ店のショーウィンドウに止まった。
あ、これ。
そこには紳士もののいかにも上品さを漂わせるダークブラウンの艶めく革靴がディスプレイされていた。
イタリア製で品質もよさそうだ。
思わずそれに魅入っていた、自分が履くためじゃない、あのひとに似合いそうだと思ったからだ。
彼はいつも傷だらけで靴底の磨り減ったくたびれた革靴を履いている、もともと身形に気を使う性質ではないとは知っているが、あの長身と無駄のない研ぎ澄まされた筋肉質の体と一見すると国籍を不明にしているもののなかなか、いやかなり整った堀の深い顔立ちと野性的な色合いの肌と、灰色、もとい銀色の髪の毛は、それなりに整えればずいぶん見られるようになると信じていた。
これを蛙男さんにプレゼントしたいなあ。
値段は、まあそれなりにするけれど買えないことはないくらいだ。
どうしようかと考えた。
プレゼントなんてそれこそいらぬ善意の押し付けではないだろうか?
かの魔術師が心から喜んでくれなくては意味がない。
プレゼントするならサプライズがいいだろうが、そんなノリをあのひとが理解できるはずもないし、万が一贈っても気に入らなかったらそれこそ無駄になる。
ここはやはり本人に意見を伺うべきだろうとと思い、背後にいると思い込んでいた蛙男に振り返った。
だがそこには彼の姿がなかった。
通行人はたくさんいたが目当ての人物の姿は発見できなかった。
一瞬焦って、目的の人物の姿を探した。
すると人ごみの遠くに一人だけ文字通り頭一つ飛びぬけた長身の後姿が見えた。
なんてこと、彼は自分が足を止めたのをどうでもいいと思ったらしい。
或いは自分を追いかけてすぐ来ると思ったのかもしれない。
置いていかれた、どうしよう。
佐藤は焦った、だがこれに関しては佐藤の姿を確認しもせず勝手に進んだ蛙男も悪かった。
それがこんな騒ぎになるとは思わなかった。
突然、「キャー」という女性の鋭い悲鳴が上がった、ついで男も女も悲鳴を上げて逃げ惑った、佐藤には何が起きたのか分からなかったが人波が方々に散って初めて分かった。
比較的若い男が手に大きなナイフを持って通行人を無差別に刺していた。既に倒れている男女の姿も見える。
それを見た佐藤が真っ先に思ったのは「蛙男さんは無事だろうか」だった。
しかし人間というものはあまりに意外な光景を目にすると動けなくなるものだ。
次の瞬間には通り魔の顔が目の前にあった。
その顔は憎悪でも悦楽でもない、なんと表現すべきか佐藤には分からなかったがとにかく、分かったことがあるとしたら正常でも異常でもない、おおよそ自分が経験したことのない精神状態の中にいるのだということだけは理解できた。
恐怖感をまるで感じなかったのは我ながら不思議だった。
男の手にしたナイフが音もなく佐藤の体に食い込んでいた、しかしそこに至る過程をテレビで言えば編集でカットしたかのように感じた、刃物が自分に向けられたと認識できた次の瞬間にはもう刺さっていた。
右肋骨の下あたり。骨がなく、柔らかい場所。
「痛…」
反射的にそう漏らしたが別に痛みは感じていなかった、本当に痛みはなかった、奇妙な、体に食い込んだ異物感とそれによるやけに頼りなく身体が縮んでしまったかのような感がしただけだ。
刃物が抜かれる時に若干の痛みを感じたかもしれないがどちからかといえば異物感が抜けてホッとした感のほうが勝っていた。
刃物が抜けたそこはやはり痛みはなく涼しさを覚えた、風通しがよくなったといえばまさにその通りだ。だって刃物で刺されたのだから。それだけははっきりと自覚できていた。
反射的に二三歩後ろによろめくとすぐ軒を連ねる店のウィンドウに当たった。
出血量や怪我の度合いを確認できたわけではなかった、そこまでの余裕がなかった。
佐藤本人の感覚と言えば。刺されるってこんな感じなんだ、ちょっと気持ち悪いけど思ったほどたいしたことはないな、そういえば人間を刺す方もまるで豆腐か何かを包丁で刺したようなそんな現実感を伴わない感覚らしいと聞いた事があるなあ。などと至極冷静に考えていた、だが本人が自覚しているより状態は酷いのかもしれない、急速に意識が遠のき始め、冷たいような熱いような感覚に全身を支配され、意図せず足から力が抜けて壁を伝って座り込んだ。
夢のような現実感の伴わない半ばぼんやりした視界の中で見えたのは長身の魔術師がいつの間にか刃物を持った男のすぐ目の前に立っていて、男の手にした刃物を恐れることなく、彼の大きな手で犯人の男の頭をわし掴むとそれを捻り折った。
いや捻ったという表現が正しいか分からない、刃物を持った男の首が、通常ではありえない角度に曲がった。それこそ男の顔面が真後ろから見えるほどに。
明かに首をへし折った。
殺した。
覚えているのはそこまでだった。
次に佐藤が目を覚ましたのは三途の川原でも病院のベッドでもなかった、自宅の、それも蛙男のベッドの上でだった。
妙にごちゃごちゃと煩い夢を見ていたような気がする。何も覚えてはいないが。
とにかく自分は死んでない、それにあれも現実だともすぐに理解した。だがどうやったのか痛みも感じなければ恐らく包帯が厳重に巻かれているだろうその箇所の血も完全に止まっている。
後でどうなっているのか確認しようと思った。
ふと顔を上げるとベッドサイドに椅子を置きそこに座っている魔術師の男の姿があった。
もしかしてずっと着いててくれたのだろうか?
佐藤が何かを言う前に男が口を開いた。
「しばらくは酷い状態だぞ、体の血液の60パーセントは失ったからな」
「そんなに?」
第一声は間抜けたものだった。正直本当にちょっと驚いた、そんなに流血した感覚など全くなかったら、まあすぐに意識を失ってしまったしここに戻ってきてどうやってか彼が自分を手当てしてくれている間のことまでは分からないけれど。それが本当なら確かにしばらくは最悪な状態が続くだろう。
「殺したんですね」
佐藤自身なぜ急にそんなことを訊いたのか分からない、意識を失う直前に見た事実をただ述べた。
非難しているわけでもありがたがっているわけでもない、だからそう訊いたときも微笑んでいた。
魔術師の男は沈黙したままだった。
「あー、と、何人くらい、じゃなくて、無事な人は」
通り魔の犠牲者数を聞こうとして質問を変えた、確か刺されてもまだ助けを求めていた人が他にいたはずだ、助かっただろうか?
「犯人を含めて4人死んで、7人が病院に運ばれた、お前は初めから頭数に入ってない、だが多分あと一人死ぬだろう」
自分が死傷者に入ってないのは当然だ、この男が現場から連れ去ったのだから。
目撃者はちょっと奇妙な目撃証言をするだろう。
それをどう決着をつけて片付けられるかは分からない、でも無差別殺人などという非日常の光景を目にしたのならその証言の筋が通らなくても仕方がないとされるだろうか。
第一、犯人を片手で捻り殺した男の外見と行動はちょっと非現実的過ぎる。
それでも恐らく目撃者は皆一様に同じようなことを語るだろう。その上でなお記憶の混乱で済まされるかどうかは分からない。
「そうですか」
佐藤は安堵でもない落胆でもない溜息をついた。
狂気に駆られたのなら解る、いや、そうなるまでの過程は到底判りはしないが、何かの拍子に狂ってしまったのならあんな行動を起こすかもしれない、けれど自分が見た、あの犯人の顔は狂気だけに支配されているのではなかった、むしろ犠牲者を悼む正常な心さえ同時に持ち合わせていたようにさえ思う。
何があの通り魔を犯行に駆り立てたんだろう。
「あのひとは、なんであんなことしたのかな?でも、あの場合じゃ、仕方ないですよね」
半分は犯人の行動に対する疑問だ、だが後半は蛙男のしたことについての佐藤なりの許しだった。
そんなものを魔術師の男が求めているかどうかは甚だ不明だが。
しばらく沈黙が支配した、佐藤もじわじわと余計な口が過ぎたかな?と反省し始めた。
えらく長かった気もするしそんなに時間も経ってないかもしれなかったが魔術師の男がようやく言葉を発した。
「生きる価値のない人間などいるかどうか」
魔術師の言葉は断定的ではなく妙に頼りない。
「しかし死んで当然の人間も…いや、いるのかもしれないがとにかく」

平等に価値があって、無い。
声に出さずそう言った。

「平等には出来ていない、人間は、運命は」
蛙男は言い訳をしているのだ、彼にしては珍しく。
あるいはあの通り魔を殺したことに対して罪悪感のようなものを覚えているのかもしれなかった。
ならこれ以上彼を責めるのはおかしい、もともと責めるつもりなどなかったが。
「そうですね、本当にそうです」
魔術師の男の言葉に全面的に賛成して見せた。それでも嘘偽りではなかった。
そして今度は自分の言葉で、それを慎重に選んで言った。
「だって逆の立場だったら僕だってそうすると思いますもん」
頭をフル回転させたつもりだったのに出てきたのはえらく稚拙な言葉だった。
「お前の腕力で出来るとは思えないがな」
間髪おかずにストレートに返された、確かにばかみたいな答えだったけどそれはちょっとロマンが無さ過ぎる、少しだけ唇を尖らせた、でもそれはそうだ、まったくそうだ、それでも。
だって本当にもしかしたら、もし刺されたのが蛙男さんだったら、僕だって犯人の首を掴んでへし折れたかもしれない、それくらい出来る気がする。
それは無理。
いやできる。
できるわけがない。
身の程を考えろ。
でもやってみせる。
無理無理。
そんな思いがない交ぜになって、結果、佐藤は思わず笑い出していた。
何がそんなにおかしいのか自分でもよく分からずそれでも小さく笑い転げていた。
それで傷が痛むというよりは疼いたがあまり気にならない。
これには蛙男も驚いたのかもしれない、普段感情をほとんどあらわにしないこの男も少し目を丸くして佐藤を見ていた。でも何故なのかを問われたりはしなかった。
笑いながら佐藤は考えた。
自分とて、もう既にこちら側に足を踏み入れてしまった。
この世界を陰か陽で二分するとしたら間違いなく今、自分がいるのは陰の世界だろう。
そして人間ではない陰に属する住民は案外結構な数がすぐ側をうろうろしているのかもしれない、今まではそれに気が付かずに生きてきただけで。
それでも自分は神様でも怪物でも魔法使いでもなくただの人間だ、でももう何も知らなかった頃へは戻れない。
もうこの世界で生きるしかないのだ、もしかしたらあの通り魔もただの人間の身でありながら運悪くこちら側に足を踏み入れてしまったのかもしれない、それに耐え切れなかったのかもしれない、だが自分も同じだ、この世界で生きていくその覚悟が自分にはあるだろうか。狂わずにいられるだろうか。
否応なく引きずり込まれたとはいえそれを今更恨んでもいなければ、だからといって迎合してもいないが、きっと魔術師の言うとおり運命とはそういうものなのだろう、理不尽で幸福で、誰の所為でもどんな行いの所為でもない、ただ、そうであるというだけだ。

笑いの発作がおさまるとふと時計に目をやり「あ、そろそろ晩御飯のしたくしなきゃ」と言って何気なくベッドから出ようとして、蛙男の怒りを食らったのはいうまでもない。
数時間前に刺されたのに馬鹿か、もっと自分を大事にしろと。
佐藤の方は痛みがなかったので一瞬そのことを本当に忘れていた、でも確かに怒られるのも当然だと思って反省した。

このひとはこれでひどく心配性なのだ、そのことを知っている。
あと、今更になって思い出した、そういえば自分はこの魔術師の男の靴のサイズを知らない。今度調べておかなければ。

復讐など無益だと、いつか自分が佐藤に言ったような気がする、なのに佐藤を刺した男を、それを理由に殺した。あるいは改心できたかもしれない相手をその余地も与えず早急に殺した。
あの場合殺すしかなかったと理由をつけることも出来なくはない。
だが完全に復讐だ。
しかし間違っていると誰に言えるだろうか、正しくもないだろうがこれが事実だ。
全てが間違っていて正しい。

馬鹿げてる。

彼をこんな世界に引っ張り込んだのは自分ではない、けれど知っていて止めなかった負い目はある。
なんの力もないただのこの人間を、手を出さなければ何も余計なことは知ることはなく、普通に、ささやかでも幸せな人生を歩んでいけたかもしれない者をこんな世界に強引に引きずり込んでおいて今更。
本当に今更になって元の世界に戻って欲しいと願うなど。
何もかも、それこそ自分のことも忘れて光溢れる世界でいつか同じ人間を愛し、結ばれ、子孫を残し、やがて老いて死んでいく、そんな当たり前にして最高に幸福な人生を送って欲しいなどと。
もうそれが永久に望めなくなったのならば。せめて自分の手で最後まで守り通してやろう、少しでも苦痛が少なく、少しでも幸せを感じられるように。それがどんなに酷い偽善か分かっている。
むしろこの状況を少しでも喜んでいる自分がいることだけは自覚したくなかったけれどそれもまた事実だった。
卑怯者め、と蛙男は自分の心の中で自身に毒づいた。
魔術師の男は自分の心に実直すぎた。
何かの許しを請うように魔術師は佐藤のファーストネームをまじないか何かのように誰の耳にも届かないように大切に呟いた。
本人の前では一度も呼んだことがなかった。

通り魔事件は犯人までもが死亡したことも含めてしばらくニュースのトップを飾っていたがだんだんと人々の記憶からも遠ざかって行った。
犯人をその場で殺したという灰色の髪の長身の男のことは死神といった神仏の類ではないか、というような噂も残ったが支持し続けたのは一部のカルトなマニアだけだ。
ただ魔術師の言ったとおり、病院で半日後もう一名が死亡した。
あれから一月半あまり経った。
ただでさえ現在の医療技術より遥かに優れた魔術師の治療を受けた佐藤は傷跡も残さずとっくに完治していた。
ただある日、佐藤が食料品を買って戻るといつもの買い物袋の中にビールの缶が一缶入っていた。
家に帰って買い物袋の中身を冷蔵庫に移していてあらためてそれに目を留めた。
なんだろうこれ?
佐藤自身にもよく分からなかった。
もともと酒はそんなに好きでもないしさほど強くもない、おおよそ今までは好んで飲もうとは思わなかったのに何でこんなものを買ってきたんだろう?蛙男さんはお酒が嫌いだって前にはっきり言ってたから譲るわけにもいかない、でも別に今無理して飲まなくてもいいんだ、じゃあ冷蔵庫に眠らせておいても別にいい、腐るものじゃないし、賞味期限はあるだろうけど。
何かの機会があればもしかしたら飲むこともあるかもしれない。
そう思って冷蔵庫の奥深くに押し込んだ。
それで忘れるつもりだった。
しばらく炊事に専念していた佐藤が急に真顔で振り返り、おもむろに冷蔵庫を開けて手を奥に突っ込んだ。

半刻後、台所の簡易椅子の上で眠りこけている佐藤を蛙男が見つけた。
酒の匂いがした。
空になったビールの缶が床に転がっていた。
正直、蛙男はこの匂いが好きではなかったが嗅覚だけは人一倍優れているから嫌でも嗅ぎ分けられてしまう。
頃合を通り越して若干香ばしすぎる香りを発している鰆の煮付けの鍋の火を止めると、一応は成人男子である佐藤を軽々と抱き上げて彼の自室に運んでやった、腕力の優れた蛙男でなくても実際にこれはちょっと軽いと感じた。
飲酒して寝むりこけたことに別に怒ったりなじったりする気は毛頭なかった。
体の傷はある程度治せても心までは治せない。そのことだけはよく分かっている。
この魔術師の男がより高次の存在とやらに願うとしたら、それは。
守ってくれとはいわない。
守らせて欲しい。


小太りの、一見するとどうということはないサラリーマン風のスーツを着た中年男が息を切らせて走っていた。それを追いかける影があった。
薄暗いトンネルを抜けて逃げ込んだのは森というほどには木も生い茂っていない精々林といった場所だったが街から外れた場所の為ほかに人影はない。
一方の追いかける影はこちらも走っているはずなのにほとんど揺れておらず、まるで滑るような足取りだった。
何度も後ろを振り返り、追っ手に気を取られていた小太りの男は木の根っこに足をとられてあっけなく転んだ。
その隙に追跡者にあっという間に距離を詰められた。異様なまでの速さだった。
体勢を立て直す暇もなかった。
追いかけてきた影は小太りの男の前に立ちはだかるとにんまりとした笑いを浮かべた。
追跡者は若い男でごく今時のどこにでもいる普通の若者に見える、ただこのまだ若干の秋の名残が残る季節にはやや早く似つかわしくない毛糸の帽子と薄手で保温性に優れた灰色のダウンジャケットで身を包んでいた。
その手には大型の剪定バサミが握られている。
目の前の追い詰めた獲物に見せ付けるようにシャキンシャキンと何度か研ぎ澄まされた刃を閃かせてみせた。
追われていた小太りの男が叫んだ。
「おれは、もう200年も人を殺してないっ」
薄くなりかけた頭髪は乱れきっている、息を荒げ、目を血走らせて必死に追跡者に向かって訴えた。
「人を殺すのはやめたんだ、つぐないも十分にした、なのにおれを殺すのか?」
一見サラリーマン風の小太りのこの男はかつては狭い地域でながらも神と崇められていた頃もあった、本当に大昔にはもっと多くの信者を従えて時に生贄を要求し、人々は素直にそれに従ったこともある。こうした土着の神々は八百万の神がいるといわれているこの国でなくてもかつては世界各地に大勢いた。ある国ではいまだに畏怖と畏敬の対象となり崇められてもいるし、ある国では邪教の神としてその名を口にすることさえ禁忌となって追放されたりもした。別の宗教の一部に取り入れられ存在が形骸化するものもあった。世相は変わり、地上に人間が増えすぎたので彼らの多くはこうして人間に紛れひっそりと生きる事を選んだ。
これは単なる時代の趨勢以外のなにものでもない。
追跡者の若い男は問答無用で剪定バサミを振るった、小太りの男の首に切っ先が食い込んだ。
尋常ではない力がこもり、刃の間が狭まって小太りの男の首にどんどん刃先が埋もれていく。
断ち切られた肉の間から人間と変わらない赤い色の血が噴出した。
「あぎいいえええ」
小太りの男は変な悲鳴を発した、足をばたつかせ両腕で鋏の柄を掴んでなんとかもぎ離そうとするが相手の力が強すぎた。
やがて首の肉を切断し、頚椎で一旦勢いが止まったが更に力が込められるとそれも大して苦もなく切り離された。
この剪定バサミも普通のものではなく、なんらかの強化をされているのかもしれない。
転がった首はしばらくの間、口からごぼごぼと血を吹いて何事かを喋ろうとしていた、しかし数十秒もしないうちに黒目がくるんと裏返って瞼の裏に隠れ、その動きを完全に止めた。
体の方も少しの間手足をばたつかせ、失った頭部の断面からヒューヒューと呼吸音が漏れていたがそれもやがて止まった。
人間にあるまじき生命力だった。実際人間ではないのだが。
「良いことをしたとか悪いことをしたとかじゃない、お前らはいらねえ、地球はもう人間のものなんだよ、おっさん」
追跡者の若い男は切り落とした首を見下ろし口の端を釣り上げて高くも低くもない声で言った。そして手馴れた様子で遺体の始末に取り掛かった。
若い男は自分を「ハンター」と呼んでいた。
こうした人間ではない存在を狩るのを趣味にしていた。
しかし彼は気が付いているのか、かつて自分もそうした「神」と呼ばれた人外の存在であったことを。
人間のフリをして人間社会に溶け込むうちに忘れてしまったのか。
地球の主が人間だと主張して人以外のものを狩るのは、自分を本当に人間だと思い込んでしまっているからか。
今はこうして自分と同じ人外の存在を暇を見つけては狩って回っていた。もう何十年も。
日中はレコード店でアルバイトをして粗末なアパートで一人暮らしをしている普通の若者だった。
人間でないものが人間ではないものを殺して回っている。
アルバイトや住まいは転々としてきた。
だが何十年経っても歳を取らず、人間離れした身体能力を持ち、人外の者を見分けられる自分の存在を人と信じて疑わなくなったのはいつからだったのだろうか。


佐藤は新聞の折り込み広告を真剣に見比べていた。
隣町のマーケットの方がキャベツときゅうりとたまごが断然安い。
あと味噌と醤油と油が昨日今日と安売りしている。
「ううむ」
唸って首を捻った。
今は野菜がとにかく高い、しばらく続いた天候不良とそういう時期が重なったから余計に。
しかし隣町へ行くには交通費がかかる、それで差し引き0になったり下手をしたら余計な出費になったりしたらそれこそ馬鹿馬鹿しい、たまに20円安いたまごを買う為に120円の電車賃を出して他のスーパーへ行くというまぬけな主婦がいたりするという話を聞くからあながち笑い話ではない。
こういう場合は大局を見なければならない。
そんなえらそうなものでもなかったが家計をやりくりする立場としては賢しくあらなければならないと思っている。
実際には佐藤の執筆活動のおかげで経済的にはほとんど貧窮する立場ではなかったがこれは自らに課した節制なのだ。贅沢は敵だ。
そこで情報収集に取り掛かった。
一番安く上がる交通手段は路線バスだと判った、目的のマーケットのすぐ側に停留所があるし、時間もそれほどかからない、そしてあらゆる考慮と計算の結果必要なものを全部買ったとしても交通費を差し引いても隣町のマーケットに行く方が50円ばかり安く上がるとの結論に至った。
たかが50円、されど50円。
しまつの極意とはこういうことをいうのだろう。
しまつとは倹約のことだ。
ただ計画を練ったり隣町までいく時間と労力が計算に入っていたかどうかは甚だ不明だ。

12分発のバスを待って乗り込んだ、「降りる停留所は富士見沢」と何度も頭の中で繰り返す、そこから1分もしないところに目当てのスーパーがある。
時間的に客も少なく精々8人くらいしか乗っていなかったが三つ目の停留所で若くてなかなか美しい女性が乗り込んできた。
なんとなくそっちを見やっていた佐藤だったが女性もこちらに気付いたらしくきれいな微笑みで軽く会釈してきた。こちらも笑顔で返した。
なんとなく外の景色を見ているとバスは大きなカーブを曲がった、次の停留所で降りる予定だなと佐藤は考えていた。

突然バスの後方に大型トラックでも衝突したような強い振動が走った。
座席シートから飛び上がらんばかりだった。
次の瞬間には運転手の悲鳴が聞こえた、ぐらりとバスが傾き、カーブ下へガードレールを超えて道路からはみ出した。
佐藤にも何が起こったのかわからなかったがそうこうしている間に二度目の追突があった、こっちの方が衝撃ははるかに大きかった。
バスは完全に道路から追いやられ15メートルはあろう下の川原に落ち始めた。
強い衝撃がまたもやきて、それでもう何も分からなくなった。

気が付いたら辺りは闇だった。
多少めまいがするが多分それほど重傷は負ってないだろう、時間はもう夜か、手をついて上体を起こすと右手首に鈍い痛みが走った、でも多分折れてはいない、せいぜい打撲症くらいだろう。
辺りには光源がなく、遠くの街灯や町の光が薄闇を作っている。
まず気が付いたのは異臭。視力があまり役に立たない状況ならではかもしれない。
嗅ぎ慣れた、と言ってしまっては大げさだがおおよそ普通の人生を送っている限りはあまり身近にない臭い。でも何度かは嗅いだことがある。
それは濃厚な血と腐敗臭だった。
それも人間のだ。
この臭いのする場所は危ない。
本能的に危機感を訴えかけるこの臭いは間違いない。
反射的に体勢を立て直し、直前の記憶を辿る、そうだ、確か乗っていたバスが何かに追突されてガードレールを乗り越えて落ちた。
そこまでは思い出した、あとはごく断片的な記憶しかない、運転手の叫び声、バスが逆さまになり天井に落ちる乗客の姿、強い衝撃が三度あって何も分からなくなった、次いで誰かに腕を引っ張られて潰れた車体から引きずり出されたのを覚えている、てっきり救助に来た人かと思ったがどう見たってここは病院や元の転落事故現場ではない。
それより異常なのはうす闇に映るこの光景だ。
一見すると精肉工場の中にいるような錯覚を覚える、天井からたくさんの肉塊が吊るされているから。
実際にそこは元精肉工場だった、だが何年も前に閉鎖され今は使われていないはずで、本来ならば冷凍庫のはずのこの場所も常温だった。正面の大きなドアが開いているので僅かながら外からの光が届き周りの状況を見て取れた。開いているというかドアそのものがなかった。
何人もの人間が解体された豚や牛のように足の甲にフックを掛けられ逆さに吊るされている。
男もあり女もあり年齢も幅広いだろう。
解体はされていないものの頭が欠けていたり手足や胴体がひしゃげているものが多かった。でもそれは結構な日にちが経過しているらしく血も皮膚も乾き、開いた目が白く濁っているのが見て取れた。
自分を含めた数人は床に転がされていただけだった。みんな死んでる?転がされている数体は比較的新しい?もしかしたらバスの乗客?ここはなんだろう?
状況だけ見れば食糧貯蔵庫だろう、しかし貯蔵されているのは人間だ。人間をこんな風に食料のようにストックするのは誰だ?いや何だ?
どっちにしても普通の状況じゃないのは確かだ、足が動くならばここから逃げた方がいい、瞬時にそれだけ判断して立ち上がってみた、まためまいがしたがどうやら足には異常がないようだ。
しかし次の瞬間、女性のうめく声が聞こえた、生きている者がいるのかと咄嗟に薄闇に目を凝らした。
部屋の奥にどう見ても人間の骨と思しきものが小さな山を築いていた。
なんとなく分かってしまった、あれは食べかすだ、食べられたのだ。何に?
次に目に入ったのはバスの運転手だ、帽子はどこかに飛んでしまい頭がプレスされたように平たくなっていたが首から下がほぼ無事で制服を着ているから分かる。
その手前に身を起こそうとしている女性がいた。
見れば若い女性で、ああ、思い出した、この女性は自分のいた席のすぐ近くに座っていた、彼女がバスに乗り込んできたとき一瞬だけ目が合った、向こうが微かに微笑んで軽い会釈をしてきたので覚えている。なかなかきれいな顔立ちの女性だった。
女性もどうやら思いのほかダメージが少なかったらしい、自分や周りの状況を窺い始めた。
彼女もまた自分の足で立とうとしていた。
しかしすぐ自分の置かれた異常な状況に気がついた、すぐ目の前に薄闇でもはっきりとそうと分かる人間の遺体が吊るされている、それも一体や二体ではない、見回せば辺りも死体だらけだ。辺りに立ち込める異様な臭いは死臭だと気が付いてしまった、自分は死んでないのになぜ死体と一緒に転がされているのか。どう見ても事故後の光景ではない、そして安置などといった穏やかな状況ともかけ離れている、確実に人為的でしかも悪意だ。どんな馬鹿でもそれを理解できないわけが無い。
誘拐されたのかと思ったのかもしれない、そして目の前の人影である佐藤の姿を捉えた。ただでさえ光源の乏しいこの場で更には逆光になっていては相手の人相を見極める手段など無い。
女性が声を張り上げた。
「キャアアアアアアアアアアア」
死体でいっぱいの貯蔵庫内に甲高い声が反響してぐわんと空気が揺れた。
悲鳴に肺の空気の全てを使い果たすと再び彼女が大きく息を吸い込んでまた叫びだした。
「助けてえええええええええええ」
人間がこれほど大声を出せるのかと思うほどの声量だった。
「落ち着いて!」
佐藤も声を張り上げたが彼女には届かない。
「イヤ!来ないで!助けて、イヤ!イヤ!」
女性は完全にパニックに陥っていた、だが逃げ回れもしない、周りはどこも近付くのもおぞましい死体だらけだ。
それはそうだろう、普通はこういう反応だ、自分がこれほど冷静でいられたことが今更ながら不思議に思える。
死体に囲まれている状況の上に目の前にいる相手が敵か味方か分からないのだから仕方がない、でもうかつに近付いたり触れてはならない、今触れたら最悪だ。
「どうか落ち着いて、僕も目が覚めたらここにいたんです、危害は加えないから安心して、怪我はしていませんか?痛むところは?」
とにかく落ち着かせようと辛抱強く女性に語りかけた。
敵意を感じない穏やかな声がやっと女性の耳に届いたのかもしれない、それで一旦は女性も叫ぶのをやめた、だがまだ状況を把握できてはいない。混乱の最中にあるのは変わらない。
「あ…」
女性が何かを言いかけて、ハッと目を見開いたように見えた、その視線は佐藤の後ろを見ていた。
それで佐藤が咄嗟に振り返ると入り口に人影があった。
薄明かりをバックにした小柄な人影は最初10代後半くらいの少年かと思った。
野球帽を後ろ前反対に被り、だぶついたTシャツを着て、6分丈くらいのハーフパンツを履いている。
「あ、お目覚め?」
軽い調子で語りかけてきたその声はこの場にそぐわないほど落ち着いていた、だが老人のようにしわがれていた。相手の年齢の予想が全く出来ない。
よくは見えなかったがその人物は笑っているようだ、どう見ても助けに来たわけでもないようだし、この現場を見て平然としていられる普通の人間など居はしない。
佐藤は女性を庇うようにして前に立ちはだかった、相手が何者かは分からないが状況から考えて少なくとも善意ある者ではないだろう。それはこの女性も同じ考えだったようだ、身をいっそう固くして縮こまった。
小柄な人影はすたすたと歩いてきて、せめてもの抵抗にと眼光を強くした佐藤にはかまわず、その手を佐藤の肩に置くと軽く押し除けた。
「ちょっと退いてて」
近くに来てその目だけが淡い燐光を放っているのが分かった。
大した力は込められてなかったようなのにそれでもあっさりなぎ倒されてしまった。
人間ではない、どう考えても普通ではない。
女性はもう逃げることも後ずさりすることも出来ず、ひっ、ひっ、と嗚咽とも呼吸ともつかない引き攣った短い声を上げている。
もう一度悲鳴を上げるためか、女性が口を大きく開いてひゅううと笛の音に似た息を吸う音を発した。
だがそれは果たされることは無かった、小柄な人物がまるでもぐらたたきでもするかのような軽い調子で女性の頭を拳で打った。
動作だけ見れば軽いものであったにもかかわらず女性の頭がぐぎっしゃっとおぞましい湿った音を立てていともたやすく砕け、目玉が飛び出して脳漿が散った、とんでもない力だったらしい、頭の下半分が半ば胴体にめり込んでいた。
女性の体がひくひくと痙攣している。
彼女の体がぐらりと前に傾き倒れこんで小柄な人物の腕の中に納まった、手がだらりと力なく落ち、悲鳴にならなかった空気がいくらかしゅううとどこからか抜けていった。
酷い光景だった。
小柄な人物は割れた女性の頭皮をめくり、頭蓋骨の欠片を指でいくつか摘んでその辺に無造作に捨てると大きく口をあけて剥き出しになった脳にかぶりついた。
まるで若者が街でハンバーガーでも食べているような調子で、脳を、食べている。
佐藤は息をするのも忘れてその光景に釘付けになっていた。
もうとっくに女性の体は痙攣すらやめていた。
やがてあらかた食べ尽くすと小柄な人影はふう、と軽く溜息をついた。
「新鮮なのはそれはそれで美味しいよね」
またも軽い調子でそう言った。
「脳が一番劣化が早いから新鮮なのをいただくならまず脳だね」
たった今殺した相手の脳を食べ新鮮なのと感想を述べたようだった、どうやら脳だけ食べるわけではないらしい、現に頭の潰れた遺体もいくつかここにある、ではここに吊るされたそれなりに日数の経過してそうな遺体は?
熟成肉。
そんな言葉が頭を過ぎった。
場違いかもしれなかったがそれは多分正解だろう。
小柄な人物の顔がこちらに向いた。
次は自分の番だ。
女性が先に食われたのには大した意味はないだろう、より威勢がよさそうなのを後回しにしただけかもしれない、好物は後に取っておくくらいの気持ちかもしれない。
さすがにもう逃げ出す余裕は佐藤にも残されていなかった。
元々大した距離があったわけではないが小柄な人影が必要以上にのっそりとこちらに近付いてきた。
それが目の前までやってきて佐藤の頭を両手で掴んだ。
あまりに異様な状況に思考回路はほとんど停止していた、血まみれの顔がいっそう近付いた、あらかた停止した頭脳でも分かった、この小柄な人物は別に見た目が奇異なわけではない、一見すると普通の人間だった。声は老人のようにしわがれていたが顔は意外と若い、でも背丈から想像するほど幼くはない、20代中頃くらいの青年か。
あるいはこうした者達には相応の年齢というものがないのか。
「あれ?」
小柄な青年は首をかしげた。
顔を少し遠ざけ、佐藤の顔をまじまじと眺めた。
「君は違うね」
そう言った。
掴んでいた佐藤の頭をぱっと離したが別にそれは乱暴な調子でもなく本当にごく普通の動作だった。
小柄な青年は今度は意味の違う溜息をついて軽く首を左右に振った。
「まったく、ちゃんと分けるようにあれだけ教えたのに、役に立たない連中だよ」
誰かに対しての文句を呟いた、完全な独り言だった。
「君は行っていいよ、じゃあね」
今度の言葉は佐藤に向けられたものだった。
気が付くとどこかの歩道に立っていた。

今自分がどこに居るのか、道路標識を確認するまで分からなかったが自宅から2キロも離れていない場所だった。でもおおよそ来る用事のないだろう所だった。
混乱の冷めやらぬ頭でなんとか家までたどり着いたのはそれから1時間もかからなかった。
玄関の前に立ってはじめて、そういえば財布がないのに気がついた。
身分を証明する物を盗まれたのか、バスの中に落としてきたのか。
いや、そもそもバスの事故は現実だったのか、一連の出来事が現実だったのか。夢や幻覚にしたって酷いものを見た。現実ならなおのこと酷い。
なんとなく手を動かすと右手首に鈍い痛みが走った。
不安に潰されそうだった。

なるべく呼吸を整え恐怖心を押し殺した、けれど青い顔をしていては目ざとい蛙男を欺けるわけがないと思ったが事実あんなものは悪夢としか思えない。言える訳がない。
魔術師への帰りの挨拶も早々に真っ先に風呂場に駆け込むと汚れた衣類を洗濯機に放り込んで体を洗い清め、台所に立って夕食の準備を始めた。
そこで手が止まった、ひき肉のパックを目にした途端あの悪夢のような食人の光景が脳裏をよぎった。

…今日は肉料理はやめよう。

野菜中心のメニューで食事を作り終えて居間のテーブルに並べるとこれまた蛙男がたまに見ているニュース番組が映されていた。
蛙男とて現代に生きるなら世界情勢くらいは知っておいた方がいいからそうしているらしい。
佐藤が電気釜から茶碗にご飯をよそっていると目の端にTVが映っていてはっとして振り返った。
テレビに映った15メートルほどの崖を落ちたバスの車体が報道ヘリからの遠映でニュースに映し出されていた。今日使ったはずの路線バスだった。
ニュースキャスターが繰り返し、遺体や生存者が一人も発見されないと言っている。運転手の姿すらないと。落ちた原因も現時点では不明だったが映るバスの残骸の後部は蛇腹状に潰れていた、まるで大きな何かが強い力で追突したように。
やはり現実だったのだ。
佐藤が顔を青ざめさせた。
落ちたバスは潰れてひしゃげていた、よくこれで自分の命があったものだ。ましてやこんな軽症で済むなんて。
いつもは何事にも無関心な魔術師の男もその表情にはいち早く気がついた。
「どうした?」
男が声をかけた。
「これ…」
言葉に詰まった、もうどこからどこまでが本当にあったことなのか分からない。

尋常じゃない佐藤の顔色を見て何かただならぬ事態を察したのか、魔術師の男が落ち着かせるように髪をそっとなで、その輪郭を優しくなぞった。
やがて少しずつ落ち着きを取り戻してきた佐藤の口から今日あった異界の出来事を聞きだした。
途中で何度も口篭り、体が震えたが大体のあらましは語れたと思う。

「現実だったんでしょうか?」
あるいは事故のショックで自分の頭がおかしくなったのかもしれないと思いつつ魔術師に恐る恐る尋ねた。
男はしばらく黙考していたが「おそらくな」と肯定した。
そして予想を語った、多分それは人食い鬼だと、屍食鬼やマンイーターやオーガやグールなどと呼ばれ世界のどこにでも存在する魔物の一種だと。
見た目からは想像のつかない怪力や催眠術を駆使したところを見ると間違いない。
普通は死体を食べる者を指すが生きた人間を食らう伝承も多く残っている。
バスも事故ではなく彼らに落とされたのだろうと。
彼らは一所にはあまり長く留まらない、今回のように犠牲者が多く出て死体が見つからないとなれば騒ぎは無駄に大きくなる、だから多分佐藤があの食用人間貯蔵庫の場所を記憶から推測出来て今から行ってみたとしてももぬけの空だろう。やったことは派手だったが普段は恐らくこんな目立つ真似はしない、何かこちらには判らない彼らなりの事情があったのかもしれない。
あくまで推測の域を出ないが。

それにしても。
TVに映る転落したバスの状態は酷かった。
彼女と自分がほとんど怪我らしい怪我もなく生きていたのは座席の位置がよかったからか。
どちらにしても事故からは奇跡的に生き残ったというのにあの女性は無残にも殺されてしまった。名前も分からないし顔もほとんど記憶にない。まして遺体も見つからない。
なんでこんなことが起きるんだろう。
恐怖より理不尽な悲しみの方が強くなってきた。
「助かっていた女性がいたんです、まだ若い…なのにあんな…」
涙声になりそうなのを必死で堪え見知らぬ女性の死を悼んだ。
蛙男はただ黙って幼子をあやすように佐藤の髪を撫で続けていた。
「痛むところはあるか?」
ややあって蛙男が佐藤に訊ねた。
「あ、いいえ、あ、でもちょっと右手首が痛いかな?」
佐藤が素直に告白すると蛙男おもむろにその手を触ってつぶさに触診した。
骨には異常はない、痛みも2、3日で引くだろう。
「他には?」
「…あ、少しめまいが…」
佐藤は努めて明るく返事したがじゃあ平気だろうというわけにもいかない。
「明日朝一番に病院に行って来い」
と釘を刺した、目に見えないところに異常があるかもしれないから。
「それから佐藤、気分は悪いだろうが飯を食え、一口だけでもいい」
魔術師が突然そんなことを言い出した。
「え…?でも」
口ごもる佐藤に更に強く魔術師が言った、「精神の安定と睡眠を促す薬がある、劇薬ではいから安心しろ、それを飲んで今日はもう寝た方がいい」と。
遠慮がちな佐藤もこれには素直に頷いて炊きたての白米を一口二口食べて蛙男から分けてもらったダークグリーンの丸薬にしては一回り大きい薬を水で飲み下した。
「よし、あとは寝ろ、片付けも俺がやっておくから心配するな」
「はい…ごめんなさい」

なんでお前が謝る必要がある?と思いながらも黙ってはいたが。

佐藤は自室の布団にもぐりこんだ後、あの人間の姿をした小柄な怪物が言った、君は違う、とはどういう意味なのか少し考えた。
考えて、答えなど出ないことに思い至った、あるいは怪物なりの食品規格などがあって、たまたま自分がそれに合致してなかっただけかもしれないと結論付けた。
それに、分けるように教えた、という言葉も、猟師が猟犬に仕留めた獲物をちゃんと回収させるように教育しているような言い回しだった。
なにかまた別の怪物を猟犬代わりに使っているのか。
とにかくあまり思い出したくない記憶だ。
というより佐藤がこちら側の世界を全く知らない普通の人間だったら発狂しかねない体験だった、まだ落ち着いていられるのはある意味いろいろ鍛えられたからだ。
ありがたいようなありがたくないような。
だが先ほど飲んだ薬の所為か、急に眠気が襲ってきて、すぐ思考が途切れた。

一方の蛙男はイラついていた。
苛立ち紛れに自室をうろうろと歩き回っていた。
自分に向けられた殺意や悪意ならば感じ取ることはある程度できる。
だがあいつに何かあっても自分には分からない、助けられない、今日のことは単に色んな偶然が重なっただけだ、極めて運が良かったに過ぎない、次に起きたらどうする?いや、以前通り魔に襲われた時だって居合わせなかったらどうなっていた?今まで考えないようにしていただけだ。
自分の非力さがただひたすら腹立たしい。
何も出来はしない、やくたたずめ、ちくしょう、ちくしょう、くそったれ。

この男にしては珍しい稚拙な暴言が頭を廻った。

それにしてもその人食い鬼が佐藤に言ったという、君は違う、というのはどういう意味だったのだろう。
佐藤の何が違う?違っていた?
あいつは普通の人間のはずだ、少しだけこの世界を知っているだけで、少なくとも自分の認識ではそうだ。
分からないことだらけだ。
だが当分はあいつを外に出したくない。

ところで蛙男が洗っていた皿は2枚割れてしまった。一枚は佐藤のお気に入りの皿だった。


夜9時過ぎにひと気のないある裏通りの道でアルバイトを終えた高校生くらいの少女がチンピラを思わせる風貌の若い男3人に絡まれていた。
少女もなんとか逃げようとしたが腕を掴まれ退路もなくいまにも泣きそうになっていた。
彼女自身まさか自分がこんな目に自分が遭うなんて信じられなかったが不安と恐怖で震えることしか出来ない。
だが突然少女の腕を掴んでいた今時風の若い男がにぶい打撃音と共に崩れ落ちた、当然掴んでいた手も離れた。
少女と他の二人が咄嗟に振り返ると金属バットをもった中学1,2年くらいの少年が立っていた。
少年はにこにことしながら「女の子に暴力はいけないなあ」と言い放った。
倒れこんだ男は鼻血を多量に出しながらひくひくと痙攣していた、或いは致命傷になったかもしれない。
残りの二人もこの命知らずな子供に暴力行為で仕返しをしようとした、残ったチンピラのうち一人がまず少年の顔面を殴ったがそれで上体がぐらついただけで表情は蚊が止まった程度にしか歪まない。
一瞬奇妙なものを覚えた男たちだったがすかさず第二撃を少年の右足の脛と鳩尾に渾身の力で蹴りを入れた。
それでもやはり倒れても平気な顔で立ち上がろうとするこの少年に不気味なものを覚えた、少年はにこにこしたままで金属バットを振り上げると彼の顔を殴った男の横面にフルスイングで打撃を食らわせた。
これは致命傷にはならなかったが軽い脳震盪を起こしただろうし頬が陥没し鼻血も出た。
いくら殴っても蹴っても痛がる様子を微塵も見せずただにこにこして血まみれの金属バットを振り回すこの少年に流石に恐れをなしたのかまだ動ける最後の一人の男は2、3歩後退りして踵を返すと倒れた仲間を放って逃げ出してしまった。
それを見送った少年が被害少女に振り返った。
「お姉さん、こんなひと気のない道を一人で歩いちゃ駄目だよ?」
少年は年齢相応の変声期が始まったばかりの声で優しく話しかけてくる。
少女は思わず「た、たすけてくれてありがとう、お礼がしたいから…あの、あなたは…?」と訊ねていた。
「ボクは通りすがりのただのヒーローさ!」
少年は明朗快活に言うと来た道を血まみれのバットをかついて悠々と戻っていった。
若干右足を引き摺るようにしていたが。
彼は生まれつき痛みを感じない汗をかかない先天性感覚性ニューロパチーという病気だった。
生まれながらにして痛みを感じたことのない自分の体を、彼は病気ではなく特別な存在だと思っていた。
スーパーマンか何かだと思っている。
このときも右足の脛骨と腓骨を骨折していたが歩き辛いだけで傷みは感じていなかった。
彼の病気はいいことだけじゃない、そもそも都合の良い病気などと言うものはこの世に存在していない。
傷みを感じないということは体が出す危険信号すら感じられないと言うことだ、たとえ重篤な病気にかかっていても本人にはそれを感じることが出来ない。暑さ寒さにも鈍感で汗をかきにくく熱中症や低体温症の危険もある、場合によっては尿意さえ感じないので漏らしてしまうことさえある。
ゆえに少年は毎日病院で検査を受けていた。
怪我を増やしたりしたら治りにくく最悪の場合命に関わると言うのに本人にその自覚はなかった。
やがて成長すれば痛みの重要さを知るだろうが今はこうして自分の特殊な体質をひけらかしたくてしょうがなかった。

実際、世界は複雑すぎた。

次の日、蛙男は佐藤に小さな人型をした木のネックレスを差し出した。
「これなんですか?」
当然佐藤は問うた。
「気休めに近いがお守りだ、それを持っていれば降りかかる災厄を1度か2度は防いでくれる」
佐藤は人型を模したその人形をありがたく受け取った。
「お前もなかなか不運な体質らしいからな、俺がその場にいて守ってやれなかったらどうしようもない」
佐藤は蛙男の不器用ながらも深い優しさに心の底から喜びを覚えた。
「…ありがとうございます、とてもうれしいです、大切に身に着けてます」
と言って笑った。
「お前の為と言うより俺の為だがな」
そういって蛙男は眉根をいつもよりきつく寄せた。
そして言った。
「夢を見たんだ」
「夢?貴方が?」
「お前は俺をなんだと思ってる」
「あ、ごめんなさい、いい夢でしたか?」
失言を詫びつつ、どんな夢でしたか?とまず聞かないあたり、彼らしい。
「ああ、しかし夢の内容を言ったらどう思われるか不安なところだ」
「訊いて欲しいんですか?」
「かもしれん」
面白いやり取りをしていると思った。
「どんな夢でした?」
こういう何気ない日常がたまらなく佐藤には楽しい。
長身の魔術師は一呼吸置いてから真っ直ぐに、自分よりゆうにひと周りは小さい相手の目を覗き込んで言った。
「お前に性的いたずらをする夢だった、泣いて嫌がってくれたから余計に興奮したぞ、酷い話だと思わないか?」
佐藤は一瞬きょとんとした顔をして次いで吹きだした。珍しくこの魔術師が冗談を言ったと思ったのかもしれない。
ひとしきり腹を抱えて笑った後「それはないなあ」とだけ言った。
貴方が僕に?という意味なのか、嫌がったりしませんよ、という意味なのかは図りかねた。魔術師も薄く笑ったがそれ以上は何も言わなかった。
後者はずいぶんと自惚れた予測だったな、と後で思った。いつの間にこんなに人間臭くなったんだ?とも。
「まあそれがあればいざ俺がとち狂ってもそんな蛮行も追い払ってくれるだろう」と一言付け加えた。


ある日、佐藤は近所のスーパーにいつものように買い物に来ていた。交通費諸々を計算した結果50円ばっかり安いからといってもう隣町のマーケットには行く気にならない。
二度とは起こらないとわかっていてもとにかく。
大体いつもと変わらぬ食料品を買って、今日の夕食のメニューに思いを廻らせていた。
魔術師の男のことを考えた。
あのひとは体を維持できる栄養さえ採れれば別になんだってどんなメニューだって文句は言わない、最悪、味さえなくてもいいんだろう、でもたまには要望の一つでも聞かせて欲しいな。
だって美味しいとも不味いともいわれないとだんだん作る張り合いだってなくなってきちゃうから。
でもまああのひとにそれを望むのは無理か。
とりとめもないことを考えていた佐藤のすぐ横を5歳くらいの少年が通り過ぎた、それだけなら別にどうということは無い光景だ。
ただその少年が商品棚に軽くぶつかって「あ」という小さな声を上げると手にしていたらしいぬいぐるみを床に落としてしまった。
少年は屈んでぬいぐるみを拾おうとした。
ぬいぐるみはすぐそばに落ちているのに少年は見当違いな場所を手探りで探している。右側じゃない左側に落ちているのに。
最初は気が付かなかったが、しゃがんでいるので肩に掛けている白い杖と年齢に似合わぬサングラスは少年が盲人であることを示していた。
先天的か後天的かは分からない。
この場合ぬいぐるみを拾ってあげるのが正しいことかどうかもわからない、これが少年に課せられた試練の一つなのかもしれないからここでの親切心は返って余計なことなのかもしれない、でもなぜこの子にそんな試練が与えられたのだろう?何かの理由があるのかそれとも。
そんな思考が一瞬巡ったが佐藤は体が勝手に動いていた。
ぬいぐるみを拾って少年の肩に軽く触れさせるようにして差し出した。
「はい、これ」
理由など、そもそもないのかもしれない。
「ありがとうございます」
少年は笑顔で礼儀正しく礼を言いぬいぐるみを受け取った。
少年が立ち上がるとき一瞬だけ見えた、サングラスの間から。
少年には目に相当するものがなかった、本来眼球が収まっている筈の場所には何もなかった、瞼と呼ばれるものすら。
のっぺりとした皮膚で覆われた頭蓋骨に沿った僅かなくぼみがあるだけでそもそも何もなかった。
少年には生まれたときから可能性さえ与えられていなかった。
何故こんなことが起きるのか、説明できる者など誰もいないのだろう。
すぐに探しに来た母親と思しき人物が一つ隣の商品棚の向こうから姿を現して声をかけ、少年はもう一度軽くお辞儀をすると声の方に向かって今度は慎重に杖をついて歩いていった。

こういう世界に生まれたのだ。
そう納得するしかない。

買い物から帰った佐藤はまず買ってきた食品を冷蔵庫につめてから洗濯物に取り掛かろうとした。
だが洗濯機の中は空だった。
まさか、と思いながら庭を一望できる居間に行って見るとかなり不器用な干し方だったが洗濯物が天日干しにされていた。
蛙男さんだ。

ああ、上着は肩を洗濯バサミで挟んじゃいけないのに、でもすごい、あの人が洗濯物を?
魔術師の男が見てないうちにあまりに酷い干し方をしている衣類を早々に直した。

夕刻になり、台所に立って今日の夕食は何にしようかな?と佐藤が思案しているとやっと書斎から出てきた蛙男が現れた。
「ただいまって言ったけど聴こえてませんでしたよね?あ、あの洗濯物ありがとうございます、とっても助かりました」
魔術師の男はなにも言わなかった、少し俯き気味になるのはこれで照れている証拠だ。
「何が食べたいですか?」
佐藤は毎日聞いているが「なんでもいい」しか返ってこない問いかけを今日もしてみた。

「オムライス」

魔術師が呟いたその単語が脳に届いた途端更なる驚きに見舞われた。コメディ的表現をすればひっくり返りそうになった。
「…オムライス…お好きなんですか?」
と目を丸くしながら訊ねると「今朝の料理番組で見た、美味そうだった、いかんか?」もちろんいけないことなどない、それよりこの人が特定の料理を食べたがるという自体珍しかった、いや、まずありえないことだった。
「出来ればデミグラスソースよりケチャップがいい」と真面目な顔で言った。
思わず吹き出しそうになったが必死に堪えた。
同時に思った。
すごい、猿が相手を倒すのに骨を武器として道具に使うことを覚えた記念すべき第一歩を見届けた気分だ。モノリスが降臨したのかな?そこまで言ったらさすがに失礼かな?
でもたったそれだけで気分がよくなった、もしかしたらこの先もこんな進歩を見られるのかもしれない。
時折、クスクスと忍び笑いをもらす佐藤にこの鈍感な男もさすがに気がついたらしい。
「ひょっとして、お前、機嫌がいいか?」
思わず尋ねていた。
普段ならどうでもいいと気にさえ留めないのに。
「あれ?よく分かりましたね」
いたずらっぽい笑顔を返した。



END