―1―
いつも居間や玄関先、ベランダに窓の庇、さして大きくも無い庭などありとあらゆる場所を埋め尽くした観葉植物の手入れは欠かさなかった。
事実上、この家を取り仕切っている佐藤は、それこそ家事一般に執筆活動に研究にとほぼ「何もしていない時間」は眠っているときくらいだったがこれだけは無いに等しい暇を見つけては丹念に行っていた。
かの魔術師からは「本人の趣味」と思われているようだったが実際は違った。
ここ数年において佐藤が現在生活ととある重要な研究を共にしているこの魔術師について分かった数少ない性質の一つに「純粋に近い環境を好む」ということがあったからだ。
要するに都会の汚れた空気や人工物の匂い、化粧品、香水、作られた飲み物等の人間が作り上げた「不自然」なものが苦手だったからだ、
水棲動物の元素を魔力とその身に取込んだ彼は、こと水においては特に敏感で、塩素の混じった都会の水を苦手とした。
だからこそ、この都心からはやや離れたまだ自然環境の多く水も比較的きれいなこの町を根城としているのだった。
もちろんこの口数の少ない男がハッキリそう言った訳ではなかったが生活を共にしていてなんとなくそれを肌で感じていた。
だから佐藤は少しでも彼にきれいな環境を提供したくて、せめてもと観葉植物で家中を満たしているのだった。
もちろん、佐藤もこんなことでは「純粋に近い環境」に近づけるのに大した効果も得られないだろうことは分かっていたし、あくまで自己満足の範囲だったので魔術師には言わないでいたのだったが。
ここがいかに辺境に近い場所とは言え、地理的には都心に程近い交通の便には優れた場所だった。
電車なら一本で新宿まで出られた、
なので仕上がった原稿を新宿にある出版社に持ち込むのにも便利だったのでさしたる不自由を覚えたことはなかった。
最も最近では顔を出すことさえなくなってほぼ郵送で済ませてしまっていたのだったが。
その日は珍しく、彼が埃っぽく空気の篭った書斎ではなく庭に面した縁側に座って日差しを浴びながらとある古文書に目を落していた。
その後ろの居間では佐藤が机の上を拭いていた、
佐藤がふと、その手を止めて顔を上げた、
軟らかな日差しを浴びる彼の後ろ姿が目に入る、
彼は全く自分の世界を作り入り込んでいた、あるいは自分がここにいることさえ気がついていないかもしれない。
この古代より甦った魔術師が極端に口数が少なく、彼の没頭する研究以外に興味というものを持たなかったことが大きいが、二人はお互いの領分についてはほとんど干渉はしなかった。
佐藤においては単純にそういう彼の性質を分かって敢えてそうしない様にしていたのだったが、
それでも二人の会話というものにおいては九割方佐藤の方から話し掛けることで成立していた。
彼は必要なこと以外は話さない。
しばらく、佐藤は彼の背中に目を留めた、
身長はゆうに190センチを越えているであろう、ここからでは斜め半分も見えないが彫りの深い「愛想」と言うものを全く持たない顔を度が入っているのかどうか良く分からない眼鏡とボサボサに伸びた髪が覆い隠している、肌の色は西洋人とも東洋人とも付かないくすんだ褐色をしていた。肌色に薄く緑がかったような何とも形容し難い色だ。
そもそも彼がどの人種なのかはっきり断言できるものはいなかっただろう、
東洋人と言われればそんな気もしたし外国人だと言われれば納得できなくも無い、
無表情の顔を覆う髪もちょっとどこの人種とも付かない色をしていた、単純に言えばそれは灰色だった。
西洋人に有るようなシルバーブロンドなどという気取った上品なものでもない、全くの艶の無い灰色だ。
「・・・何だ?」
ふと後ろを向いていた古代の魔術師が低くこれまた妙な威圧感のある声で問い掛けた。
「何をじっくり見ているんだ?」という疑問を意味する佐藤に対する普通の問いかけだ。
佐藤にはそれは瞬時に判断できたがこれが他の者ならこの男のもつ独特の雰囲気に気圧され萎縮しそうな所だ。
ふいに珍しくも向こうから話し掛けられた佐藤は驚いてわずかに上体を引いた、
振り返りもしていないのになぜ見ていることが分かったんだろう?
この魔術師は気配には非常に敏感だった。
「あっ…いえ、別に…」
一瞬、焦りも有って落ち着のない返事を返してしまう。
一度軽く呼吸を整えた、
「…別に、大したことではありません、ただ、貴方がそんなところで読書なんて珍しいな、と思っただけです」
「…そうだな」
佐藤の言葉に魔術師はやはり振り返りもせずに簡素な答えを返した。
厳密には答えにはなってはいないが、彼にもこれといって特別な理由など無かったのだろう。
それ以降会話は途切れた。
佐藤は軽く溜息を吐くと再び部屋の掃除に取り掛かった。
魔術師が顔にかかる髪を鬱陶しげに手でばさりと振り払う。
その、いつもの彼の癖を横目に捕らえた佐藤が再び掃除の手を止めてふと何かを思いついたように笑う、
そして立ち上がると背を向けて座る魔術師の後ろに歩み寄った。
「そんなに鬱陶しいならこの髪、結ぶか、切るかしたらどうです?」
くすくすと笑みをもらしながら佐藤は魔術師のその顔の横にかかる不思議な色合いの髪にそっと手を伸ばし両手で後ろに軽く纏め上げる、
「なんなら僕が切ってあげましょうか?」
「やめろ」
「あれ?信用してないんですか?心外だなあ」
そう言いながら子供じみたいたずらっぽい笑顔で無愛想な魔術師の顔を後ろ斜めから覗き込む。
「これでも手先は器用な方なんですよ?もっとも人の髪を切ったことはないけど」
やめろといいながらも特にその手を払いのけたりもせず、魔術師はされるがままになっていた。
近づくと佐藤からふんわりと清潔な洗濯洗剤の香りがする、
環境のみならずいつも自身もなるべく清潔でいようとする彼の心がけの一つだ。
もちろん佐藤は魔術師の苦手とする整髪料やコロンなどの人工物は一切つけなかった、
もともときれい好きな傾向では有るので、その代わり頻繁に風呂に入ったりこうして毎日洗濯済みの服を着ているのだ。
「必要ない」
全く表情も変えずに男が憮然とつぶやく、
「でも、貴方いつも鬱陶しそうにしてるじゃないですか?…うん、こうして顔をハッキリ見せたらなかなか男前ですよ?」
何が嬉しいのか佐藤は魔術師の髪を手で束ねたまま相変わらず手の中の古文書に目を落したまま振り返ろうともしないこの男に笑顔を向ける。
相手の男が黙ったままなので佐藤もちょっかいをやめた。
男の髪から手を放して自分の仕事に戻ることにする。
この男が無視を決め込んだ訳ではない、
これでもその実、反応に少々困ってのことなのだ、
表情にも態度にも出ないが、彼の心の内はなんとなく読めるようになっていた、
どう言えばこの男から普段と違う感情を引き出せるか。
最近ではこうしたイタズラ心からこの男に意味の無い手出しをすることがある。
やはり結果はいつも同じで最終的に彼は黙り込んでしまう。
そこまでが限度だ。
分かった上でやっているのだ。
佐藤はここまでを楽しんでいた。
我ながらずいぶん余裕じゃないかと自分の心のゆとりを気持ち良く思った、
少し前迄は考えられなかったことだ。
ただそれだけの些細なことで機嫌が良くなった、向こうの男がどうかは知らないが。
そう言えば以前にもこんなことがあったなと、掃除の手を休めずに佐藤は思い出した。
見てない様で見ている。
少し前のことだが、
ある朝佐藤が目を覚ますと妙に体がだるかった、
すぐに分かった、熱が有るらしい。
季節の変わり目で体調を崩したか、
そうでなくとも人間であれば熱を出すことくらい年に一度くらいはあるものだ。
しかしその時は「高熱」というほどでもなかったので少しばかりの無理も平気だろうともちろん魔術師にも言わず、普通通りその日の仕事を始めた、
微妙にいつもよりだるいながらも朝の食事の支度をすませ、さて肝心の彼に声をかけようかとしていた佐藤のまえに突然この男が立ちはだかった、
相変わらず特に必要が無ければ目を合わせて話すこともしないこの男だったが、この日はまだ一度も佐藤とは目を合わせていなかったし下手に気を使わせるのがイヤでなるべく平静を装ってたつもりだったにも関わらず、
「お前、どうした」
とやにわに聞かれたのだ。
質問の意味もすぐには理解できず自分よりゆうに15センチ近くは背の高いこの男の顔を見上げて目を丸くしたまま答えに詰まった、
「熱が有るだろう、朝からだな、なぜ休んでいない」
やっとその時になって質問の意味を理解した、
内心なぜ分かったのかと驚きつつもそれほどたいしたことはないと笑顔を作って応えたが男は強引だった。
すぐさま自室まで引っ張っていかれそのまま寝ていることを強要されたのだ。
よっぽど自分が思うより酷く具合の悪そうな顔でもしてたのだろうか?
そうたずねると彼は一言だけこう答えた。
「いいや、だがそれくらいは見れば判る」
いつその目で自分を「見た」というのか。
どうやら彼の目は全身に有るらしい、と思った。
かと思えばずっとこの家の玄関にあった花を生けた美しい花瓶を佐藤の不注意で壊してしまった時、それを報告したら「そんなものがあったのか?」という返事だ。
どうもこの男は目や耳から自然に入る情報も選別して必要のあるものだけをその頭脳に納めるらしい。
雑念、というものが存在しないのか。
・・・とすると自分は彼の「必要」の範囲内に入っているのだろうか?
一瞬そんな風にも思った。
その夜、一本の電話がかってきた、
いつものように書斎に篭っていた佐藤がけたたましい呼び出しのベルに短い溜息を吐き、出ようと腰を上げたとき、それより先に立ち上がった魔術師がすばやくその電話を取った。
珍しいことも有るものだ、佐藤は少し驚いた。
大概、ここにかかってくる電話は佐藤に宛てたもので編集者からの仕事の依頼くらいのものだった、あとは無遠慮な勧誘の電話だ。
従って、この男が電話を取るなど少なくとも今迄はただの一度も無かったことだ。
当然、それは自分に渡される筈の内容だと思っていた佐藤だったが魔術師はしばらく無言で受話器を耳に当てていた。
わずかに向こうの喋っている声が漏れている。
しばらくして魔術師は「わかった」とだけ言って受話器を置いた。
そして事も無げにもとの定位置に戻ると先ほどまで目を通していた書物を再び開いたのだった。
彼に対する用件だったのだろうか?
しばらく呆気に取られたように魔術師を見つめた、
大体にして彼に「現世」における「人付き合い」などあるはずも無く、少なくとも佐藤の知る範囲では皆無だった――その彼に用件を伝える者はだれなのか、一体どういう内容なのか。
そもそも何故彼が珍しく自発的に電話にでたりしたのだろうか?
今思い返せば先ほどの電話の呼び出し音がいつもと違っていた様な気がした、
そう、普通より長い、妙に間延びした音だった、様な気がする。
だがこの電話機はごくありふれた普通のものでかかってくる相手によって呼び出し音が違う、などと言う洒落た芸当の出来る物ではない筈だが・・・。
「あの」
佐藤は魔術師に問い掛けた。
「なんだ」
相変わらず素っ気無い返事だ、
「今の電話、貴方にだったんですか?」
「ああ、明後日の日曜、新宿に出かける」
唐突な申し出に佐藤はさらに唖然として魔術師の顔を見た、
「え?どなたから電話だったんですか?」
「名前までは知らん、だが、お前が昨日読んでいたあの書物、あれと向こうが持ってる本と交換したいと申し出てきた、雰囲気からしてそこら辺の低級な術師だろう、あの本は此方には必要の無いものだが向こうの手持ちの書物には興味がある」
ますます呆気に取られた。
話を自分の中で総合すると、ある日突然名前も素性も知らない何処かの魔術師が彼に書籍の交換を持ちかける電話を突然かけてきた、ということだがまだまだ情報は欠落している。
佐藤はこう考えた。
ようするに「彼ら」には人間には想像も付かないネットワークのようなものがあってお互い素性も顔も知らないが必要なときにだけ必要な情報にアクセスできるということなのだろうか?
まだ完全な理解には及ばないがそういうことだと納得するしか無さそうだ。
「その・・・本って、メシア復活に役立ちそうなものなんですか?」
「いいや、むしろ、復活された後に必要になりそうなものだな、一介の術師如きが持ってても理解出来んだろうし宝の持ち腐れだからなもっと実用的な本に交換したいんだろう」
メシアが復活された後に必要――。
彼は絶対に信じているのだ、今はまだ雲を掴むような可能性であってもいつかは必ず成し遂げられると。
些細な発言だったが彼の信念の強さを改めて思い知らされた様な気がした。
さておき、佐藤にはまた別の思惑があった、思い切って魔術師に尋ねた。
「あの、僕も一緒に行っていいですか?」
「…遊びに行くのではないぞ」
僅かな間を挟んで魔術師が顔も向けずに答える、
「判ってます、ダメですか?」
だが佐藤も負けじとなおも食い下がった、珍しいことだった。
ちら、と佐藤の真剣な顔に目を向け、しばらく考えるようなそぶりを見せた魔術師が短いため息を付いた。
日曜日の都心は大層な賑わいを見せていた。
その人ごみを割って歩く古い書物を小脇に抱えた長身の男と、そのあとに少し遅れて続く佐藤の姿があった。
彼がこうして珍しく人間の街を歩けば大概誰もが一瞬驚いた顔をして振り返った、
その無駄に目立つ容貌の所為ももちろん有ったが、全身を取巻く異様な雰囲気が現代に全くそぐわないものであったからだろう。
彼が街を歩くときは普通の人間のようにキョロキョロと物見をしたりはしなかった、
動かない視線は真っ直ぐ前だけを見詰め、その眼鏡の奥からでも強い意志と威圧感を持つ視線を感じた、
そして近寄り難い密度の濃い重い空気を纏って歩く。
いつものことだったが、
彼の後ろを歩く佐藤は少し必死だ。
好きで後ろを歩いている訳ではない、
彼の歩みがさして素早いものでもないにも関わらず長身の彼の歩幅には情けないことだがどうしても遅れを取ってしまうからだ。
佐藤の身長は成人男性のごく平均くらいで決して小さい訳でもなかったが彼の真横に並べばその差にも劣等感を抱かざるを得ない。
やたらと目立つ男の後にくっ付いて歩いていれば彼に向けられた周りの人間の好奇の視線を感じない訳はなかった。
だがそれに関してはもう慣れた。
気にもならない。
多分、佐藤の知る限りではこのあたりをこの魔術師が歩くのは初めてだったろうと思うが、
地図も持たないにも関わらず少しの迷いもなく彼はある裏路地にある小さな雑居ビルの前に立っていた。
彼はそのビルの階段をさっさと登って行った、
佐藤もそのあとに続く。
チラッと見たこのビルに入ったテナント名のかかったプレートにはどれも怪しげな名前が並んでいたように思う。
3階まで上がったところでその階のフロアに出た。
蛍光灯はあっても薄暗く感じる左右に伸びる長細い廊下があった、魔術師は右側の廊下に歩を進めた、そして「○○古代文書研究所」とプレートの掛かった怪しげなドアの前で足を留め、その扉をノックした。
少ししてドアから顔を覗かせたのは痩せた背の低い男だった、体の割りに大きな頭と大きな眼が気の小さいネズミのような動物を思わせる。
痩せた小男が魔術師に愛想を振りまいて中に導きいれようとしたが後ろにいた佐藤の姿に眼を留めると急に不審そうな顔になった。
ほかに誰かが来るなんて聞いて無い、そう言いたげな視線を魔術師に向ける。
佐藤はただの人間だと言うのに、見かけに似合った小心ぶりだった、それに気がついた魔術師が小さなため息をついた。
「佐藤、お前は少しそこら辺で待っていろ、そんなには掛からん」
そういって魔術師はさらに廊下の奥を指差した。
そこには申し訳程度の喫煙スペースのような場所で粗末なソファーなども置いてあった。
「はあ…」
そう彼に言われては仕方が無い、素直に従うことにした。
魔術師と小男が部屋の中に姿を消す、
佐藤はその僅かな休憩所の椅子に腰を下ろして深呼吸した、だがヤニくさい空気が胸に入ってしまってかえって気分が悪くなる。
そのとき、廊下の階段から不審な人影がじっとこちらを窺っていた、
佐藤は気がついていなかったがそれは佐藤を見ていたようだった。
かの魔術師と一緒に生活を送るようになってもうずいぶんと経つけど未だにわからないことのほうが多い。
それに加えて、彼について少しでも知りえるところを多く持ちたかったのもあった。
今日だって、本当は現代の事情には少し疎い彼を心配して付いてきたのだけれど結局別になんの助けも要らなかったし。
そもそも、自分のような特別な能力もないただの人間が彼の傍について彼と同じ志を持つこと自体が間違っているのだろうか?
でも――、
あの時、彼は行き場をなくした自分に「付いて来い」と言ってくれた、彼だけが自分を見捨てないでくれたのだ。
それも本来なら真っ先に自分を憎んでもいいはずの立場にあったのに。
その彼だけが自分を助けてくれたのだ。
いまでもその恩は忘れていない、例え彼を支えられるほどに役には立たなくとも少しでもいいから何でもいいから助けになりたいのだ。
そのためならなんだってする。
どんな事だって出来る。
無意識に握り締めた拳に力が入る。
そんな思いを巡らせていた佐藤は先ほど廊下から覗いていた人影が自分のすぐ傍に迫っていることには全く気がつかなかった。
その人影が佐藤に向かって手を伸ばす。
ぽん と軽く肩を叩かれた。
ハッとして振り向いた、魔術師がもう戻ってきたのかと思ったが、違った。
そこに立っていたのは派手な服を着た、艶やかなストレートの黒髪を腰まで伸ばした小柄な女性だった。
額を出した顔が好意的な笑顔を浮かべている。
「こんにちはぁ」
彼女は明るく声をかけて来た。
「あ…こ、こんにちは」
佐藤は驚きながらもつられて挨拶しかえした、
「ウフフ」
女は意味ありげな笑みを洩らしながら佐藤の真横に腰掛けた。
彼女その行動に佐藤が意識的にあと退る、
「私、えんれい、って言うの」
彼女は聞かれてもいないのに自己紹介した。
―えんれい?
その名前を聞いた佐藤は少し考えた、漢字にしたら「艶麗」だろうか、しかしそんな大仰な名前聞いたことが無い、もしかしたら中国系あたりの外人だろうか?
「私ね、このビルの2階で占い師をやってるの」
彼女はよく見れば中々きれいな顔をしていた、いや、どちらかというと、かわいい、といったタイプかもしれない。
しかし彼女本来の美しさを損ねているものがあるとしたらその濃すぎる化粧と酔わんばかりにキツい香水だろうか。
占い師、と言ったがなるほど、この怪しげなメイクと派手な服装はそれらしい演出の為か。
「あなた、可愛い顔してるわね、ついさっき通りかかって遠くから見てそう思ったんだけど、近くで見てもやっぱり、可愛い」
可愛い…、
正直、男として最も言われたくない言葉だ、もともと少々童顔目であった佐藤は意識的に努力して大人らしく見えるようにいつもスーツにネクタイという服装だったし、意識的に笑顔を抑えるようにしてきた時期もあった、笑うと余計に童顔っぽくなるらしかったからだ。
しかし、女は今度はなんと佐藤の足に手を置いた、
そしてその手で腿を撫でさするようにしながら顔をさらに近づけて来る。
― マズい。
緊張で身体が硬くなる。
生来、人一倍顔の造りが整っていた所為か、見知らぬ女性からこうした好意の押し付けといった人によっては羨ましい憂き目に会うことはそれなりに多かった。こうした女性からの積極的な行為を喜ぶ男も多いだろうが佐藤は正直苦手だった。
まして今は魔術師が戻るのを待っているのだ、女性の相手をしている場合ではない。
「あっ、あの!」
「いいの、黙ってて」
困ります、と続けようとした佐藤の唇を真っ赤なルージュを塗りたくった「えんれい」と名乗った女の唇がいきなり塞いだ。
さらに女の手が一見そっと、しかし実際には結構な力を持って佐藤の後頭部を逃げられないよう押さえつける。
まずい!
これは、まずい!!
佐藤は猛烈に焦った、彼女を何とかもぎ離そうとした、しかし一瞬逡巡した、相手は女性だ、強引に突き飛ばしたりは出来ない。
彼女の肩をつかんでとにかく納得して離れてもらうようにしようとした、そのとき、
佐藤は急に手に力がなくなっていることに気がついた、いや、手だけじゃなくて体も動かない。
彼女の肩に添えようとした手が力なくずるりと落ちる。
緊張し過ぎた所為かとも一瞬思ったがそうじゃないようだった、動かないというより感覚がフワフワとして、力という力がすべて抜けてしまったような、とにかく不思議な感覚だった。
上半身を支える力すら抜けて行き背中が椅子の背凭れにグッタリと寄りかかる。
一旦、唇を離した女がニンマリと笑みを浮かべる。
さらに身体を寄せて、ほとんど佐藤の膝の上に彼女が座る形になった。
「…だいじょうぶよ、可愛がってあげるから、私に任せて、ね、私の部屋に行きましょ?」
そう言って再び唇を重ねてきた。
今度は佐藤も抵抗しなかった。
正確に言えば抵抗する気力が全く失われていた、
次第に思考にまでモヤが掛かってしまったようになってきていた。
そのとき、目の端にある人影を認めなければ不思議とそのまま彼女の言うことに従ってしまっていたかもしれない。
だがその長身の男の姿を確認した佐藤の脳内からさっきまでの麻薬のような感覚は一瞬にしていっぺんに消え去った。
― 蛙男さん!!
今度こそ女を力いっぱい引き剥がそうとした、
だが、その前に女が「ひゃあ!!」と言う素っ頓狂な悲鳴を上げて佐藤の膝の上から飛びのいた。
魔術師の登場にも驚いたが彼女の行動もまた奇妙だった。
女は傍目に見えるほどワナワナと体を震わせていた
「あ…アンタが…アンタみたいなのがまだこの世にいたなんて…」
震える指で魔術師を指す。
「失せろ」
魔術師が威圧的な声で女に命じた。
女はその言葉に弾かれた様に一目散に魔術師の横をすり抜けもと来た廊下を逃げていった。
「用は済んだ、帰るぞ」
その一連の流れをただ呆然と見守っていた佐藤に向かって魔術師が憮然とした声で告げた。
「は…はい!」
佐藤もまた彼の言葉に弾かれたように立ち上がる。
先ほどと違う古書を手にした魔術師が先立って相変わらずの大きな歩幅で歩く。
それ以降一言も交わさずにビルを出た、その後に早足で着いて行きながら佐藤は思った、
もともと会話の多い二人ではなかったが何となくこの沈黙、もしかしたらこの人は先ほどの出来事を誤解しているのではないかと思った、
不謹慎さに怒っているのではないか?という気がした。
彼女が何者か知らないが被害を受けたのはこっちであって別に自分が彼女を誘ったわけでもない、
いやまあ、押しのけられなかったのは事実だが。
それより奇妙に思うのはさっきの女性の行動だ、
彼女はこの男のことを知っていて、そして畏れていた様だった。
前を行く彼に対し質問しようかと思ったそのときだった、それをさえぎるかのように先に魔術師が言葉を発した。
「ああいう女に迂闊に近づくな」
「え!?」
言葉の出端を挫かれた佐藤は思わず変な声を上げてしまった。
「あれは下級の魔女だ、ああいう女は若くて見てくれの良い男が好きでああして半端な魔法で男を誘い込んでは篭絡して堕落させる」
「は、はあ…」
魔術師の言うことは、一応、わかったが曖昧な返事しか返せなかった。
「わかったな!」
「は…はい!」
魔術師が半ば強引に締めくくった。
思わず気圧されて返事してしまったが良く考えれば納得が行かないのは佐藤の方だった。
まるで自分が彼女に好んで近づいたみたいな言い回しだ。
「で…でも、別に僕が、誘ったわけじゃありませんし、その…いきなりだったからちょっと混乱して…」
「どうせお前に隙があったから魅入られたんだろうが」
歯に衣着せぬ言い方だ、佐藤もこれには少しばかり反論しようかと思って口を開きかけたが、じつは案外その通りだったかもしれなかった、
一応は抗議を試みたものの、結局、この男に対してそれ以上は何も言い返せないままだった。
佐藤はしゅんとして男の後に続いた。
突然、男が立ち止まった。
「わ!」
後ろを俯き加減に歩いていた佐藤が急に立ち止まった彼の背にぶつかる。
だが佐藤がぶつかって来ても男の体は僅かにでも揺らいだりすることがなかった。
「何?どうし・・・」
立ち尽くす彼に何事かを尋ねようとしたとき男の手が静止を促すように背後にいる彼に伸ばされた。
前へ出るな、と言うことだろうか?
佐藤が彼の顔を見上げた。
魔術師はまっすぐどこかを見ていた。
この都会の喧騒には惑わされずただ一点を。
眼鏡の奥の視線が鋭さを帯びた。
男の視線の先には喫茶店のような店があった、そのガラスの向こうに視線を注いでいる。
さらに魔術師の眼が細められ視線に鋭さが増す。
途端に都会の喧騒が消え、この男と自分とその視線の先にあるもの以外何も存在し無いような、無音になったような感覚を佐藤も感じた。
「…一体何が…」
異様な雰囲気にのまれた佐藤が張詰めた雰囲気に耐え切れず不安に満ちた声で問いかける。
その声に急にハッとした様になった魔術師が視線を佐藤に戻す。
そして佐藤の肩を抱いて足早にさっき進んでいた道とは別の方向に足を進めた。
「なんでもない、行くぞ」
それはちょっとなんでもないようには思えなかった、彼が視線の先にあったものから自分を覆い隠して逃げているような気がした。
しかし佐藤には彼の視線の先に「何者か」がいるようには見えなかった。
喫茶店の中にいた2人組の男がニヤニヤと魔術師の去った後を目線で追っていた。
「へーえ、あれがそうなのか…」
「噂は耳にしたんだがな、復活したって、でもまさか本当で、こんな所でお会いできるとはね」
「ところでヤツの後ろにもう一匹いたよな?あれは何だ?」
「魔力みたいなものは一切感じなかったな、手下かね?」
二人組みの男はものめずらしそうに先ほど見かけた「同類」の、
いや、
その「同類」の中でも特別に有名な魔術師のことに関する話題で盛り上がっていた。
彼らは非常に好戦的だった。
ここで見付かった事で後々大変な事態を招くことになるとは流石に魔術師もこのときは予想していなかった、
いや、多少の予感があったからこそ、敢えて「逃げる」などという彼にしては珍しい行為に出たのかもしれない。
魔術師には無用な戦いを避けたいだけの理由があった。