―2―

あの日から数日後のことだった。

相変わらず魔術師は書斎にほぼ一日中篭りっぱなしだった。
佐藤が庭や玄関回りを掃除していたときだった、
家の周囲を覆う庭木の垣根の向こうから一人の女性がひょこっと顔を出した、そのとき佐藤は気がついていなかったが。

「佐藤さん!」
と明るく呼ぶ声が聞こえて佐藤はハッとして振り返った。
「こんにちはぁ」
長い黒髪の小柄な若い女性が垣根の向こうから手を振っていた。

「え、あ、こんにちは…」
佐藤が戸惑いながらも挨拶し返した。
向こうの親しげな態度に、一見、見覚えが無いように思えたが向こうが名前を知っている以上どこかで合ったとこがあるはずだ、と必死に記憶を手繰った。
彼女は軽い足取りで垣根を回って開け放した門から敷地に入り佐藤の目の前に立った、
佐藤を見上げる彼女はやはりかなり小柄だった。
おまけに薄く化粧を施した可愛らしい顔はかえって童顔を際立たせている、下手をしたらまだ20歳にもなっていない、少女かもしれなかった。
「ここに住んでたのね、こないだはゴメンなさいね」
そう言ってにっこりと微笑む彼女の顔に確かに見覚えがあるような気がした、誰だったか・・・?
「え・・・と、・・・」
「やあね!忘れたの?あたしよ、えんれいよ」

えんれい。
あの魔術師が「近づくな」といった下級の魔女という話の・・・

「あ!えんれい、…さん!」
思わず、先日のいきなりの濃厚なキスの洗礼と魔術師の言葉を思い出して一歩後ろに下がった。
「す・・・すみません、この前お会いしたときとだいぶ印象が違ってて・・・」
無理に作り笑いをしながらも一歩一歩あと退る、
実際、判らないのも無理は無かった、今日の彼女は以前逢ったときのこれ見よがしなけばけばしい衣装と化粧ではなく、すっきりとした白いワンピースに薄化粧の出で立ちなのだ。
ただ濃厚な香水の臭いだけは変わっていない。
おそらく、彼女自身毎日香水を付け過ぎて嗅覚が麻痺しているのだろう。

「やだ、大丈夫よ、そんなに警戒しないで何もしないから」
佐藤の態度にえんれいがコロコロとさも可笑しそうに笑う。
「だいいち、あの男のまわりで下手なことしたら殺されちゃいそうだし」
あの男、というのはもちろんかの魔術師の彼を指している。

「ねえ!あなたってあの有名なホラー作家の「守宮 月光」なんですってね!なんだか想像してたのとイメージがだいぶ違うわね、もっと不気味な黒魔術オタクかと思ってた、以前あなたの小説、馴染み客に進められてチラッと読んだけど、ずいぶん魔術に詳しいから書いてるヒトは只者じゃないとは思ってたのよね」
佐藤の小説が魔術に詳しいのは当然だ、なんせ、正真正銘の魔法使いから知識を得て書いているのだから、もちろん、知識を提供した魔術師が佐藤の書いた物を読んだことなど一度も無かったが。
「でもあなたは魔法使いじゃないから素性を知って一瞬不思議だったけど納得したわ、あの男と一緒にいるくらいだし当然よね」
えんれいもその辺の事情は察したらしい。
しかしドコからそこまで詳しい情報を知ったのか?佐藤は非常に不思議だった、
するとえんれいは心の声を聞いたかのように「貴方の髪の毛、ちょっとこないだ拝借してね、髪の毛に聞いたの、ここの場所とあなたの素性を」と付け加えた。
「はあ…かみのけに、ですか…」
相変わらずリアクションに困っている佐藤に向かって彼女はさも楽しげに喋り続けた。

「だからね、今日はこないだのこと謝りに来たの」
そう言うと急にしゃんと背筋を伸ばして佐藤に向き直った。
「驚いたでしょ?ゴメンね」
と、可愛らしく小首をかしげてすまなそうに微笑んだ。
「あ…い、良いんですよ!別に…気にしてませんから…」
彼女のやけに可愛らしい態度に急に照れくさくなった佐藤が慌てて首を振った。

「そう?よかった!」
今度は全開の笑顔を見せる。
そのクルクルと変わる表情がいかにも若く元気な女の子らしく佐藤をどぎまぎとさせた。
もしかしたら、彼が言うほど悪い女性ではないのかも知れない。

「ね、あの男いるの?」
えんれいが佐藤の後ろの玄関を覗いて尋ねる。
「え?ああ」
急に話題を振られた佐藤が我にかえったように彼女と同じ方向の、廊下の最奥の書斎の方に目をやった。

「いらっしゃいますけど…彼にご用ですか?」
「あんなヤツ?ううん、違うわよ、今日はあなたに逢いに来たんだから」
えんれいの言葉は佐藤に対する友好があったが同時に魔術師に対する悪意が感じられた。
彼とはどういう関係なのか、いや、そもそも関係など無いのかもしれないが何かしらの形で知っていることは間違いない。

佐藤は以前不思議に思ったことを思い切って彼女に尋ねてみた。
「あの、彼のこと、ご存知なんですよね?」

「ええ、当然知ってるわよ、でもまさか現代にまであんなのが生き残ってるなんて思わなかったわ、ビックリしちゃった、とっくに滅びたって聞いてたのにさ」
と、彼女は肩を竦めながら言った。

滅びた、と言うのは佐藤自身も以前伝え聞いていたことだ、おそらく、彼女や他の現代にいる魔術師たちの間では古代の彼のような存在は伝説となって知れ渡っているのだろう、先日、あの男を目にしたときの彼女の驚きはさしずめ6500万年前に恐竜といっしょに絶滅したとされたシーラカンスが水深100mで悠々と泳いでる姿を最初に発見した生物学者のようなものだろう。

彼女はもしかしたら自分よりかの魔術師の過去を知っているのかもしれない、
そのことに対しなんとなく興味が湧いた、今まで聞きたくとも彼自身から根掘り葉掘り聞くのは何となく躊躇われていたのでひょっとするとこれは思いがけないチャンスかもしれない。
それに、どうやら今の彼女に悪意は無い様だし、今のところ魔術師も顔を出さない。
まあ、彼は一度書斎に篭ると佐藤が呼ぶなりして引き出さないことには本当にいつまでも出てこない。

「あ、あの、こんなところで立ち話もなんですし、折角ですからお茶でも飲んでいかれませんか?」
単純に魔術師の彼について聞きたい事があったからだったが、一瞬、それを言った後で彼女に変な風に取られないか心配になった。
ここらへんに佐藤の妙な気の小ささが現れている。

「ええ、喜んで」
佐藤の僅かな不安をよそに、彼女は至極快く、嬉しそうに答えた。


居間で佐藤が出したお茶とクッキー(編集者から届いたものだが今の今まで封さえ切られることの無かった)を口に運んで、テーブルを挟んで佐藤の向かい座ったえんれいが心地良さそうに一息ついた。

「ねえ」
魔術師のことを聞こうと思っていた佐藤より先に彼女が口を開いた。

「あなたとあの男ってどういう関係なの?あの男のなんなの??」
出し抜けな質問だった、

―彼にとっての、何?

「えっ…、と…」
その質問に対する答えを今更ながら佐藤自身持ってないことに気がついて思わず口篭った。
そういわれてみれば、なんだろう、もちろん、複雑ないきさつがあって彼と行動を共にすることになったのだったが、
それはさておいて、自分は彼にとって何だろうかと瞬間、思考の深みに嵌ってしまった。

彼との関係を一言で人に説明するとしたらなんだろう?
パートナー?いや、それは驕りすぎだ。
友人?それも、すこし違うような・・・。

「あー、そっか、わかった」
答えに困った佐藤に何を確信したか、えんれいが手を叩いた。

「愛人でしょ!!」

突拍子も無いえんれいの発想に佐藤がずっこけるようにして体勢を崩した。
危うく目の前のお茶をひっくり返してしまうところだった。

「ち、違いますッ!!」
顔を真っ赤にしながら佐藤が反論した。
「違うの?」
えんれいが、あれ?と言うように小首をかしげた。
「あ…当たり前でしょ!僕は男ですし、どうしたらそんな風に見えるんですか!!」
「えー?だってさ、その手、見せてよ」
と、佐藤に催促するように彼女自身の手をひらひらとさせて言う、
彼女の真意がつかめない佐藤が困惑して目を瞬かせる、
「え?手?」
「そうよ、右手よ、ほら」
一瞬の逡巡の後、えんれいに言われるままおずおずとテーブルの向かいに右手を伸ばす。
「ほら!ほらやっぱり!!」
差し出した佐藤の手をぐいっと自分のほうに引き寄せながら、その手の甲を見てえんれいが喚きたてた。
「だって!ほら!!恋人じゃなかったら何でこんなものが付いてるのよ!」
「・・こんなもの・・・、って、あの、なんですか?」
以外に強い彼女の力に引っ張られ前のめりになった佐藤が尋ねた。
彼女は佐藤の手の甲に顔を付けんばかりに覗き込んでいるが、佐藤の目には何かが付いているように見えない。
「“貞操の術”よ!誰かがあなたにイヤラシイことを出来ないように“貞操帯”の魔法が掛けられてるの!!」
「ええ!?」
佐藤には見えないが、おなじ魔法使いには見えるのだろう、
しかしそんなものが付いてるなんてこの時まで佐藤自身知らなかった、一体いつそんなものがかけられたのだろう。

「これを掛けられると、例えばあたしがあなたに疚しい気持ちでせまったりキスでもしようものなら、あたしの方が死ぬ程の苦痛に苛まれるわけ、実際死んだりはしないけどね」

そういえば、佐藤は思い出していた。

あれはえんれいと会った日、帰途に付いたときのことだった、
魔術師が突然佐藤に向かって「手を出せ」と言ったのだ。
何のことか分からなかったが彼に逆らうことなど念頭に無い佐藤が素直に手を差し出すと魔術師がその手を取って甲に指先を軽く押し当て、
なにか聞き取れぬ呪文のようなものを呟いたのだった。
なんですか?と聞いたら彼は、なんでもない、と答えたのだった、佐藤の方も彼に対し彼が説明不必要としたことを深く聞くことはしなかった。

そうか、あれか。

そのことは思い出したものの、
問題は魔術師の真意だ。
別に彼女が言うように自分は彼の「こいびと」な訳も無いし(ない、断じて、あるわけがない!)、ならば何故そんなものを付けられたかと言えば単純に、「信用が無い」ということだろうか。

その結論に至った佐藤は軽いショックを受けた。

そのときだった、
廊下を奥のほうから誰かが歩いてくる軋みが聞こえた、
誰か、も何も無い、この家にはあと一人しかいない。

「何をしている」
重みのある低い声で尋ねたのは当然、魔術師だった、
その言葉には威嚇と警戒の意味合いが込められている。

「あ…えっと…」
居間の入り口に立つその姿を目にしてあわてて彼女に掴まれた手を引っ込めた。
魔術師が彼女を良く思ってないことは判っている。
佐藤が何とか彼女に悪意があってここにいるのではないことを弁明しようとした。
「ハーイ」
だが、それより先にえんれいが努めて明るく笑顔で魔術師に挨拶した。
「何をしているのか、と聞いた」
さらに威圧するような口調で居間の入り口に僅かにもたれるようにして立つ魔術師がえんれいを睨んだ。
「やあね、女の子に向かってそんな怖い顔しないでよ、無粋な男ね」
まるで意に介さないどころか小ばかにするような口調でえんれいが笑いながら答える。

魔術師が、今度は佐藤の方を睨む。
「近づくな、といった筈だぞ」
「で…でも…」
魔術師に圧倒されて佐藤は言葉が繋げなくなりかけていた。

「あやまりにきたのよ、彼に」
一体誰が誰を庇っているのかもはやよく判らなくなっていた、今度は佐藤を庇いにえんれいが口を挟んだ。
「あやまりに、だと?」
再び魔術師がえんれいに目を向ける。
「そうよ、このまえとっても失礼なことをしちゃったのを気に病んでね」
「嘘をつけ」
「本当よ、彼とお友達になりたいの、純粋にね」

自分に対しやけに余裕たっぷりの彼女に言葉の真意を図りかねているのか、魔術師の眼がさらに細められる、
確かに、この魔術師から見ればえんれいなど取るに足らない存在である。

それは当然、一応は魔術を繰る彼女には判りすぎる程判っている筈だ、まして佐藤には例の術を掛けてある、

隙だらけで、おまけにいかにも女が好きそうな整った容姿の彼がウッカリああいった悪意ある魔女に魅入られないための用心のつもりだったが、たかがこの程度の術とは言え下級の魔女程度に破れるはずも無ければ、その恐ろしさが判らない訳でもなかろうに。

「蛙…山田さん」
今度は佐藤が口を挟んだ。
ところでだが佐藤はこの魔術師を人前では「山田さん」と呼んでいた、「蛙男」ではあまりに奇妙すぎるからだ。
彼の正体を知るえんれいの前でも必要があったかどうかは判らないがつい口から出てしまった。
「本当ですよ、本当に彼女は謝りに来てくれただけなんです、ひきとめたのは僕の方で…」
彼女を弁護する佐藤を気に入らないというような表情で睨み下ろした、
そんなものわかるものか、と魔術師は思っていた。
「そうなのよ、や・ま・ださん!」
えんれいが勝ち誇ったように言った。

魔術師はとかく二人の態度が気に入らなかった。

「さて、嫌な男も現れたことだし、急に居心地悪くなっちゃった、あたし、帰るわね」
えんれいが立ち上がった。
「でも、また来ていいでしょ?ね?佐藤さん」
そう佐藤に向かって言ってまた可愛らしく小首をかしげて笑って見せた。
「二度と来るな」
それは、もちろん。と答えようとした佐藤の言葉をさえぎって魔術師が不機嫌そうに言う。
「別にあんたに会いに来るわけじゃないわよ、あたしはこの子に言ってるの!」
えんれいが唇を尖らせて魔術師に反論する。

明らかに年下の女性に「この子」と言いわれるのはなんだかおかしな物を感じたが、ここは一応、彼女の方を弁護したほうがいいかと思った。

「あの、山田さん、女の子にそんな言い方は・・・」
「何が「女の子」だ」
魔術師がはき捨てるように言う。
そこまで彼女を嫌う理由が、佐藤には解らない、第一、彼女のことを“下級の魔女”と呼ぶくらいならあるいは恐れるような事は何も無いだろうに。
「いいわよ、こんな男、ほっときましょ」
えんれいが佐藤の前に歩み出た。
「じゃあね」
そういうと自分の指先に自らの唇を押し当て、さらにそれを佐藤の唇にちょんと押し当てた。
こんなものは「術」の範囲内に引っ掛からない。
そして白いワンピースの裾を翻して彼女は意気揚々と魔術師の横をすり抜け居間を出て行った、見送りはいらないわよ、という声が玄関から聞こえた。

いらない、とは言われたが一応見送りに出ようと佐藤があとを追うと、意外にも足の速い彼女は玄関を開け放したまま既に姿を消していた。
「・・あ」
彼女の間接キスにかなり照れはしたが、彼女に聞きたいことが魔術師の出現により聞けなかったことが残念でならなかった。
名残惜しそうに玄関を閉める佐藤の後姿を魔術師は苦々しく見つめていた。




「どうして彼女をそんなに嫌うんですか?」
いつまでも不機嫌そうな魔術師に向かって居間でお茶を出しながら佐藤が尋ねる。

「・・・あのタイプの魔女の性根の悪さをお前は知らない、ああいう女は男を堕落させることしか考えない、いずれ隙を付いてお前を篭絡するつもりに違いない」
腕組して胡坐をかいて座った魔術師が憮然として呟いた。
そうだろうか?と佐藤は思った、どことなく愛しげな彼女の言動には悪意を感じなかった。
そりゃもちろん、自分には人の心が読めるわけではないし、それほど人を見る目があるかと聞かれたら自信を持ってはい、と言えることもない。
だが、子供ではあるまいし誰にでも裏表があることくらいなんて流石にこの歳まで生きてきて判りきっている、ある程度は人の本音と建前を感じ取ることくらい出来るはずだった、それでも彼女をそれほどの悪人とは彼に言われても不思議とそうは思えなかった。

そのときふと、佐藤は別のある疑問が湧いた。

「あの」
「なんだ」
まだあの女に関することかと思い、魔術師がうんざりした様に殊更不機嫌に答えた。
ただでさえ、彼女の残した香水の鼻を突く人工的な匂いがこの魔術師にとっては不愉快だった。
「いえ、あの、貴方が僕にかけたという、その、魔術のことですけど…」
「ん?」
例の貞操を守る呪文のことだ、おそらくあの女が喋ったのだろう。
「…ああ、あれか」
佐藤にばれたところで構わない、そもそも今日だってそれのお陰であの女の魔の手にかからずに済んだのかもしれないのだ、守ってやったのだから本人の了解も得ずかけたことは別に悪びれることではない。
「あの魔法って、魔女とかそういう人たちにだけ有効なんですか?」
「いいや、極単純な技だから特に人種を限定出来たりはしない」
それを聞いた佐藤がしばらく俯いて何か考え込んでいた。

「・・・じゃあ、僕にもし、貴方の知らないところで普通の恋人が出来たりしてたら、どうなったんですか?」

その言葉に魔術師が固まった。
迂闊なことに、その可能性を全く計算に入れていなかったのだ。
この普段思慮深い魔術師にしてはなんとも間抜けな計算外だ、なぜそうなったのか魔術師本人にもわからなかった。

「ねえ」
一見、ただ黙っているように見える魔術師に佐藤が答えを催促する。


「……恋人が出来たら、まず俺に報告しろ」

ながい沈黙の後魔術師はただ一言そう言った。
苦し紛れだったのは明らかである。



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