―3―

その週の日曜日、
しばらく続いたすっきりしない天気が嘘のように晴れ渡っていた。

折角の休日(といっても小説家に厳密に言う「休日」なるものがあるわけではないが)なのだから、
久しぶりに佐藤は街へ出てみたくなった。
もともと、彼は都会で育った現代人なのだ、本人としては名残惜しい訳ではないと思っていたがたまにこうして都会の雰囲気に触れたくなる。

外出したいと思うことはしばらく患いついていた自分にとってもいい傾向だとも思った。

「ほら、…貴方の服とかも買わないといけませんし…」
思い切って彼に誘いをかけて見た。
いつも彼の着替えは佐藤が代わって合うサイズのものを適当に買ってきて済ませていた。
彼の都会嫌いは解っていたがそれにしてもたまには彼を連れて現代の空気に触れさせてみたかった。
彼は先週、本の交換を持ちかけられたときのように「必要性」が無ければ自主的にどこかに赴いたりはしない。

何度かそういう「特に必要性も緊急性も無い」用事での誘いを過去にかけてみたがいずれも無駄に終わった。
今度もだめもとで挑戦してみたのだったが。

「必要ない」
あいも変わらず視線も合わせる事無く魔術師が言い放つ。
ああ、やはり、と佐藤はもうお馴染みになってしまった会話に肩を落とした。
仕方なく、じゃあ一人で出かけます、と腰を上げかけたとき
「だが一緒に行くのに異存は無い」
と、いつもは無い一言を付け加えたのだった。

「え?」と思わず佐藤が聞き返した。
「一緒に来てほしいのだろう?行っても良い、と言っているんだ」
至極、珍しいことだった、
その珍しい魔術師の発言の裏に先日のえんれいと「貞操の術」にまつわる一件で佐藤に対し負い目を僅かばかりにも感じていたから、と言うのは余談になる。
さておき、佐藤はその発言に高揚した。
珍しいしどういう心境の変化か解らないが、とにかく、彼の気が変わらないうちに連れ出そう、と思った。

魔術師は先日不愉快な出来事が2つもあった新宿へは足を運びたがらなかった。
でもそれでも佐藤には十分だった。
まったく、傍目から見れば大の大人がハッキリそれと見て判るほどに浮かれていただろう。

その日の正午ごろ、二人は近くの、それでも比較的都会色の強い街にいた。
有名百貨店が立ち並ぶ都会の薄汚れた空気は魔術師にとっては心地よいものではなかったかもしれない、
だが久しぶりに体の軽そうな佐藤を見てる限り、それも悪いことでは無いかと魔術師は思っていた。
もちろん口にも顔にも出さなかったが。

魔術師本人は別段こだわりも無かったが佐藤が執拗に彼に新しい服を買い与えたがった。
魔術師にとって見れば着れれば何でもいいくらいのものであったが元より服装にも身だしなみにも気を使う性質の佐藤は彼にも「まとも」な格好をしてもらいたいのだ、
というのもこの男はそれなりに上背もあったし、堀の深い顔立ちは東洋人(では無いのかもしれないが)離れしていたし、まともに身なりを整えればそれなりに見栄えが良くなると確信していたからだ。

佐藤がとある有名百貨店に魔術師を引っ張って入った。

流石に休日の百貨店は大層な賑わいだった。
そのほぼ大半は小さい子供を連れた親子連れに夫婦かカップルといった面々で構成されていた。
佐藤が真っ先に目指したのは目当ての紳士服売り場だった。

「これなんかどうですか?」
目ぼしい服を見つけては魔術師に意見を伺った。
「お前になら似合うんじゃないか」
だが当然返って来るのはそっけない返事だけだ、
「そうじゃなくて貴方にどうですか?って聞いたんです」
佐藤も諦めない。

それでも佐藤には楽しいらしかった、
珍しいくらい、平和な時間がすぎていくことに心から安寧を覚えているのだった。



その時、このデパートの向かいの建物の屋上に人影があった。
それは2人で、男だった。
彼らは見通せるはずの無い建物の中身を見通していた、彼らの口の端に不敵な笑みが浮かぶ。

「さて、ご挨拶といこうか」
そのうちの片方の男がつぶやいた。

その瞬間、平和な空気に満ちていたデパート内の空気が突然一変した。

魔術師は体中が総毛立った。

何者かの強い魔力を感じた。
思わず不穏な空気がやってきた方向を振り見る。

こんな白昼、町の中で、それははっきりと、間違いなくこちらに向いていた。
いつからか分からないが付け狙われていたようだ。
うかつだった、と魔術師は僅かな後悔を覚えた、だがすでにはっきり向うに標的にされている以上、
今更姿を隠して逃げても限度があるだろう。

しかしこんな町中で喧嘩を買う気も無い。
ともあれ、向うはずいぶんと姿を隠すのが得意らしい、今の今まで気が付かなかったのは失態ではあるがこの自分からここまで完全に気取られず近づいたことに関しては感心を覚えなくも無い。

「ねえ、蛙男さん、これは?貴方に似合いそう」
険しい表情の魔術師に気付かず、佐藤は何度目かの手にした服を両手で持って差し出した、
だが、彼の表情の変化にすぐに気が付いた。
思わず差し出しかけていた手が止まる。

魔術師の鋭い視線が人々の雑踏を擦り抜けどこか一点を凝視していた。
「どうし・・・」
何事かを尋ねようとした佐藤の言葉を遮ったのは魔術師の行動だった。
彼は突如佐藤の腕を取って走るような速さで歩き始めた。
引っ張られた佐藤が慌てて手にしていた商品を半ば放り投げるように棚に戻す。

「な、なんですか?」

魔術師の気色に気圧され思わず歩調を合わせながら佐藤が尋ねる。
それに対して彼は一言も返さなかった、
だた素早い歩みで巧みに人々を掻き分けながら階下に進もうとした。

だが、下りエスカレーター前に立った瞬間、魔術師の本能が危険を告げた。
―階下はまずい。―
押しつぶされるかのような重圧な空気が当りを取巻いている、だがそれは一般の人間は気が付かない。
再び佐藤の腕を強く引っ張って今度は逆方向、上階へと足を進めた。
魔術師に振り回されるようになった佐藤が客の女性とぶつかった、
女性から短い悲鳴が漏れたが謝るほどの暇も無かった。

やはり人々の間を潜り抜けながら魔術師は上階へと急いだ。

エスカレーターを何階分か登ると、そこは店舗ではなく貸しホールの様な場所になっていた。
一般客向けのエスカレーターはここで終わっている。
まだ上階はありそうだったがここから上はおそらくこの建物の管理事務所か何かになっているのだろう。
一般には開放されていないようだ。

ホール前の立て札には何らかの祝賀会の案内とたくさんの花が飾られていた。
もちろん、こんな所は招待状でも無ければ入れないだろう、
ホール入り口の横に律義に立っていたボーイが奇妙な二人の姿にチラと目をくれた。
どうも招待客ではなさそうだ、と一目でわかった。

「蛙男さん、ここ…」
佐藤が控えめに止めるのも聞かず、魔術師はホール入り口のドアに手をかけようとした。
すかさずボーイが「お客様」と止めに入る。
「もうしわけありません、ここから先は招待状が無ければ立入りをご遠慮させていただいているのですが…」
どことなく不審な客に、それでも恭しくボーイはさりげなく手を差し伸べて行き先を塞ぎながらにこやかに言った。
魔術師がボーイの目の前に軽く手をかざした。
ボーイの顔がキョトンとしたものに変った、
そしてすぐさま何かを思い出したように「どうぞ」と言って自らドアを開いた。
魔術師が軽い暗示をかけたのだ、それ自体に佐藤が驚くことは無かった、彼の得意技だ。

魔術師の目的はこのホールの奥から更に上階へと続く階段だった。

ドアが開かれると、中はそれなりに豪華な立食式のパーティー会場だった、
天井からはこの祝賀イベントの横断幕が掛かっている。
その幟には「●●先生、直木賞受賞おめでとう」などと書かれていた。
客はホール全体が見渡せないほどひしめいていたが皆かしこまったスーツやカクテルドレスに身を包んでいた。
ネクタイもしていないラフなスタイルの魔術師の姿は佐藤よりもこの場にそぐわなかっただろうが誰もが歓談とご馳走に夢中で二人の姿に目を止めなかった。
この場合はかえって好都合だったが。

佐藤が不安げに周囲を見渡した。
唯一、若い女性と歓談していた初老の男性と佐藤の目が合った、だが彼は優雅に会釈してすぐこちらから関心を逸らした。
同じく、魔術師も今度は立ち止まって周りを覗っていた、
とは言え、彼の場合は物珍しさからではなく、不穏な気配を察してのことだったが。


その時、会場にある小さな舞台の裏側で吊物に使う金属製のワイヤーがキリキリと音を立てて巻き付けられたドラムを回し始めた、
それはあたかも機械で動かされているようでもあったが実際には動かす動力はなにも伝えられていなかった、いない筈だった。
やがてそれは真っ直ぐに貼り伸ばされ、まるで意思を持っているかのようにヒュンと軽く風を切る音を立てて浮き上がる。
その間にも徐々にワイヤーに見えない力が加わり、放たれる寸前の弓の弧のように張り詰めながら「その時」を待った。

一瞬の静止の後、それは恐ろしい勢いを持って弾かれるように空を滑り出した。
その力と速さは想像を超える物だった。

おそらく「それ」が今、この瞬間始まったことを気が付いた者はこの会場に誰も居なかった、
ある男一人を除いては。


魔術師は瞬間的に気配を察知した、
はじかれたように、ソレがやってくる方向に顔を向けた、
彼のその行動に気が付いた佐藤が彼の顔を見上げる。

次の瞬間、魔術師はいきなり佐藤の胸座を右手掴んで地面に引き倒した、

佐藤は突然ぐるりと回転した視界に驚きの声を上げる暇も無かった。
次の瞬間には来るであろう地面にぶつかる衝撃を予想して身を硬くしぎゅっと目を閉じる、

その上を「何か」が恐ろしい速さと力を持って空気を切裂き乍ら通り過ぎたことなど気が付きもしなかった。
ただ一瞬、大きな虫の羽音のようなものを聞いた気がした。


少しして、来るべきはずの衝撃が来ないことを不思議に思い、恐る恐る佐藤は目を開けた、

目の前、10cmもない所に魔術師の顔があった。

彼の普段あまり感情を映さない、金色がかった不思議な色合いの瞳が自分を見詰めていた、
やはり未だ状況が理解できず、驚きで佐藤が呼吸を詰めた、重なった魔術師の視線がわずかに揺らぐ。
彼の長い髪が佐藤の顔や額の上に落ちていた。


床にぶつかる衝撃が来ないのは当然だった、
彼は胸座を魔術師に掴まれたままだったからだ、

佐藤の下半身は床に付いていたが上体は地面すれすれのところでピタリと止まっていた、魔術師の腕力に片手一本で釣り上げられた状態だ。

魔術師が佐藤を引き倒して自分も屈んだのはわずか一瞬の早技だった。

だがその一瞬の間に全てが起きて、そして終わっていた。

その状態のまま、佐藤が次に不思議に思ったのは先ほどまであれほど賑やかだった周りが静まり返っていることだった。
魔術師は立ち上がるのと同時に強い力で佐藤を引き上げた、両足が地に付く。
魔術師が佐藤から手を離す。
一応は大人である佐藤を片手で軽がる引き倒したり引上げたりとこの男の腕力は大したものだ。


「…くだらん小細工を…」
と周囲に鋭く視線をやりながら魔術師が小さくつぶやいたのを佐藤は聞いた。

強引に引っ張られて拠れて崩れてしまったシャツとネクタイを無意識に直しつつ佐藤は異様な雰囲気に満ちた周りの状況をゆっくり見回した。

会場中の人間の動きがすべて止まっていた、だがそれはマネキンのように全く動かない訳ではなかった。
一瞬何かが起きたことは誰しも分かった、そう、何かがこの場所を目に留まらぬほどの速さで通りぬけたのだ。
そしてその何かが自分達の体に何らかの影響を及ぼしたことも。
だがその何かの正体がつかめず、誰もがおどおどと自分の体を見下ろしていた。
ある者はそれが通り過ぎたと思しき自らの体の個所が猛然と熱くなるのを感じた。
ある者は鈍い痛みを覚えた、息が急に出来なくなったと感じた。
ある者は何かを思う間もなく急速に意識を失い永遠の虚無に落ちた。

会場のどこかから女性の悲鳴が上がった。

しかしその悲鳴も会場の人々に共鳴して拡大するかと思いきや、すぐ消えた。

またどこかで今度は男の叫び声も上がったがそれもその一度で終わった。


佐藤が自分の近くに居た初老の男性に目を留めた、
品の良い白髪の紳士だ。そう言えば先ほど穏やかな笑顔で女性と会話していたのを見ていた。

だが今の彼の表情は驚愕に引きつり大きく目を見開いたまま、こちらに何かを訴えるように口をわずかに動かしたが声にはならなかった、
すると、その男の鼻から下にすうっと赤い筋が耳まで横一文字に走った、続いてそこからじわりと鮮血が行く筋も零れ出した。
初老の男の体がぐらりと前のめりに揺らめいた、それと同時に先ほど赤い筋の通った個所から上が鋭利な刃物で切った果実のようにズレて滑りグロテスクな断面を晒した。
口から上のそれは男性の体が崩れ落ちるのより一瞬早くべちゃりと音をたてて佐藤の足元直ぐ近くの床に落ちた。

佐藤の喉の奥からくぐもったうめき声がもれた。

そしてそれはそこかしこで起り始めた。

ある白いドレス姿が美しい女性は地に足を付けたまま上半身だけが床に落ちた。

ある男性はまずズボンがストンと地面に落ち、情けない下着姿ををさらしたがそれを恥じる余裕も無く、
体が腰から二つに折れるように別れて上半身は後ろに、下半身は前に倒れた。

誰かのグラスが派手な音を立てて床に砕け散った、だが落ちたのはグラスだけではなく肘から少し上の部分までの腕も一緒だった。

会場に居た人々が、佐藤と魔術師を残し、皆一様に体を二つに切断されて崩れ落ちはじめた。

もはや誰もが悲鳴すら上げられる状態ではなかった。

腰から二つにされてもなお死にきれず、苦痛のうめき声を上げる者、
既に死んでいる者。
自分の絶望的な状態を不幸にも理解するだけの思考力が残っており、朦朧とする意識の中で無駄だと知りつつも生き別れとなったみずからの下半身を腕に残った最後の力で引き寄せようとする者。
誰かの助けを求めて泣きながら腕だけでヨタヨタと前進する者。

会場は濃厚な血の匂いと溢れ出た内蔵と人のパーツと苦痛のうめき声が犇くまさに地獄絵図そのものの様相を呈した。
見渡す限りのあまりにも残酷な光景だった。

佐藤は思わず自分の口を両手で覆った、叫びたかったが声が出ない、むしろ喉元に込み上げた吐き気を押さえる方が先だった。
何とか吐き気を押さえ込み呼吸を整えたかった、だが大きく息を吸えば入ってくるのは血なまぐさい空気でしかなくそれすら困難を極めた。

魔術師が後方を振り返る、
彼らの後方5メートル、床から大体150センチほどのところに人々を切裂いたワイヤロープが張り伸ばされていた、
生々しく線を染める血が滴っている、佐藤も魔術師の視線の方向に気がつき、恐る恐る振り返ってそれを見た。
さっき聞いた虫の羽音のような音はこれが通過する音だったんだとそのときになって彼も気がついた。

ワイヤーロープの軌道は会場の舞台付近から飛んできて二人のいる後部へと走った、
僅かな傾斜を描いたらしく、最初に切られた人は先ず腰の辺りだったが二人より後ろにいた人の中には首や顔の中央で切断されている者が多かった。

いきなり魔術師が再び佐藤の腕を取って足早に会場の奥にある非常口へと向かった。
魔術師の大きな手に佐藤の細身の腕はがっしりと掴まれてしまう。

急に引っ張られたのと足を踏み出したときに誰かの血で滑りほとんど佐藤は魔術師に引き摺られるような形になった。
腰から下を失い助けを求める女性が魔術師の足に手を伸ばした、だが彼は全く意に介さず、むしろその手を蹴り払うようにして歩を進めた。

「待って…待ってください!」
佐藤がようやくそれだけ言葉に出来た、だが魔術師はそれも聞き入れなかった。

もう一度佐藤は今度は逆に彼の手を引っ張って抗議した、

「待ってください!助けないと…」
「お前に何が出来る、もう誰も助からん」

魔術師の言葉は辛辣だった、だが確かにその通りではあった、
佐藤は医者ではないし、何が出来るかといえば何も出来ることなどない。
言葉に詰まった佐藤をもう一度強く引っ張って会場を出た、そろそろ会場の奥にいたのスタッフたちも中での異常に気が付いて集まって来ていた、その間を有無を言わせず魔術師が人を割って通り抜ける。
中をのぞいた人たちから鋭い悲鳴がいくつも上がったのを佐藤は強引に引っ張られながら背中で聞いた。

魔術師は佐藤の腕を引っ張りながら非常階段を上り始めた。踊り場の前に「関係者以外立入り禁止」と赤い文字で書かれた立て札があったがもちろん目もくれなかった。
いいかげん引かれてる腕が痛くなってきたが男は変わらず何も言わずにただ早足で階段を登る。
「どこへ行く気なんですか?」
男の歩について行くのがやっとで息を切らしながらの佐藤の質問にも「急げ」の一言で答える。

血の惨劇となった会場がある階から3階分ほど一気に登ったところでやっと一旦足を止め、最上階であるその階の廊下に出た。
階を表示する壁の数字は「8」と描かれていた。
ここはやはりこのビルの管理事務所なのだろうか、下の広いフロアに比べ、ただ細長い廊下が続きその途中に横に伸びる通路といくつかの事務所やらトイレらしい標識の付いたドアが並んでいた。
どうも人の気配はない。

そこでやっと佐藤の掴んだ腕を開放してやった。
魔術師がすばやくあたりの気配に気をやった、視線の鋭さが倍増する。

流石にあまり体力のあるほうではない佐藤は完全に息が上がってしまい、しばらく膝に手を付いて苦しい呼吸にあえいでいた。
魔術師の目がビル全体を覆う不穏な気配に細められる。

魔術師が今度も強引に佐藤の両肩を掴んでドアが並ぶ側の壁に押し付けるようにして座らせ、更に自分が覆いかぶさるように抱きすくめる。

「え…なッ・・・?」

佐藤が何事かを口にしようとした瞬間、地鳴りのような音が周囲に響き渡った、
「動くな」
魔術師の低い声が耳のすぐ傍に聞こえた。
次の瞬間にはそれは確実な激震となってビルを揺るがした、地震、というレベルではない揺れだった、窓のガラスが壁の歪みで爆発したかのように飛び散った。
鼓膜を破壊せんばかりの轟音と突き上げるような振動に建物全体が崩壊するかと思われた。
「うわああッ」
佐藤が思わず魔術師に強くしがみ付いて叫んだ。
だが魔術師はこの轟音のなかでも不思議とはっきり聞こえる静かな落ち着いた声で「大丈夫だ」とささやいた。


それはおそらく3分弱ほどで収まっただろう、
佐藤はもっともっと長く感じていたが大体それくらいの時間だった。

揺れが収まりあたりも静まると魔術師がゆっくり身を起こした、
だが佐藤がしがみ付いて離れなかった。

「佐藤、もう大丈夫だ、ゆっくり手を離せ」
その相変わらず落ち着いたトーンを保った声に佐藤も恐る恐る顔を上げる、魔術師の袖を掴んで硬直してしまったかのような指を魔術師が手を重ねて一本一本丁寧に解いてやった。

あの凄まじい振動にも関わらず、この階は原型を保っていた、原型とは言っても床も幾分か歪んでいたようだし廊下のドアというドアは歪んで砕け、窓のガラスは全て吹き飛んでしまっていたが。

魔術師が立ち上がり状況を一瞥した。

佐藤もやっと周りを見る余裕が戻って来た、
不思議なことに、いや、この男の力を持ってすれば別に不思議でもなんでもなかったのかも知れないが、彼らのいた場所には破片やガラスが一切降っていなかった、まるで二人の周りを透明な円形ドームが守っていたかのように、全ての破片や瓦礫は彼らを中心にしたきれない円を描いて避けて積もっていた。

しかし何がどうなったのかわからない、窓の外はもうもうとチリが舞っていて何も見えない。

「・・・一体何が・・・」
と佐藤が問う、
「恐らくこの階から下が崩壊した、完全につぶれているだろうな」
こともなげに魔術師が答える。

佐藤は驚愕のあまり言葉を失った、この男の言うことは本当だろう、
彼は崩壊を免れる階を予測してここへ来たのだ、しかし、下の階にいた沢山の人たちはどうなったのだろう。

考えるまでも無い、下の階が全て崩壊したなら、おそらく生きているものはいないだろう。

「ど・・・どうして、こんなことが・・・」
佐藤は顔色を完全に失っていた。

「何が何でも、俺に喧嘩を売りたいヤツがいるようだ、しかし、この程度の罠でこの俺を殺れると思われたら、なめられたものだ」

吐き捨てるように魔術師が呟く。

まるで達磨落しのようにデパートの一階からこの二人の居る階以外の下の階全てがきれいに崩れてしまったのだ。
佐藤にも信じられなかったがそれを目にした街行く人々も、瓦礫の下に埋まった人々にも到底信じられない出来事だっただろう。

あたりには粉塵が舞い上がり人々の視界を奪った、
平和だったはずの日曜日の街はパニックに陥り、逃げ惑うもの、はぐれた肉親を探し呼ぶ者、また或いはビルの破片などで怪我を負った者で溢れた。
すぐにパトカーや救助隊のサイレンが聞こえてくるだろう。


佐藤は恐る恐るそれでなくとも只でさえ歪んで歩きにくい廊下を瓦礫を踏み越えて先ほど登ってきた階段口を覗き込んだ、
近づくにつれ粉塵が酷く、うっかり一呼吸吸い込んでしまい、咳き込んだ、目もまともに開けられない。
口と鼻を袖で押さえながら薄目を開けて覗ってみれば、なるほど確かに階段は踊り場を折り返した先の2〜3段を残して瓦礫に埋もれている。
それだけ確認できたのが限界だった。


勿論、階下が全部潰れたとは言え、窓から外に飛び降りれば十分怪我をするであろうほどの高さはある、まだ外も視界が悪く実際見て判断した訳ではないが階下分の瓦礫が積もっていると考えれば当然だろう、窓から逃げるというのも簡単には行かないだろう。
しかし壁もヒビだらけで先ほどから崩壊の余韻かあるいはこれから起きる更なる倒壊の予兆か、不気味な軋みと地鳴りのような音が続いていた、もしもまだ崩壊が起きるとすれば脱出できる物なら早めにした方が良いかもしれなかった。

それにしてもビルが何らかの原因で倒壊を起したとしてもこんな風に狙い済ましたかの様に特定の階だけ潰れたりする物だろうか、
その答えは先ほど魔術師が言った「喧嘩を売られている」という言葉にあった。
要するに、何者かの仕業なのだ、おそらくはこの魔術師を狙った。

「誰が貴方に、こんな派手な喧嘩を売っているんです?」
佐藤が魔術師の背に尋ねた。

「分からん、だが…」


魔術師は前に街へ出たとき感じた「同類」の気配を思い出していた、
何者かまでは知らない、おそらく新参者の魔術師だろう、感じた気配は2人だった。

しかし命を狙われる理由がない。

魔術師としてもメシア復活を成し遂げる日まで自分が倒れる訳には絶対に行かなかったし、それゆえ無用な戦いは出来れば避けたい所であった。
無論、自分が新参者になど敗れよう筈もなかったが。


―昔の自分ではあるまいし―

佐藤に背を向けていたので魔術師の顔は彼からは見えなかったがその口元は皮肉な笑いに歪んでいた。

自分の方に戦う理由はなくとも向こうにはあるだろう。

太古の昔、滅びた筈の恐ろしく強力だったとされる上級の魔術師達は今ではすでに伝説化しつつあった、
もしそれが現世に甦ったとすれば伝説の魔術師に戦いを挑んでみたいと思う好戦的な奴等はそれこそごまんと居るだろう。
だからこそ復活後はなるべくその存在をひた隠すようにして生きて来た、ただしあくまで情報収集にこうした闇のネットワークが必要だったため、そこは身分をごまかして一般の黒魔術師のように振舞ってはいたが。

今回のは皮肉な偶然の望まぬ邂逅だ。
黒魔術を新興する連中は現代の世にごまんといても本格的な魔術師となればその個体数ははるかに少ない。
そうそう新しい世代の「同類」になど出会う可能性はないとたかを括っていたのかもしれない。
まったく、らしくない油断だ、だが間違いなく自らの油断が生んだ災厄だ。

―― まったく、らしくない。――



魔術師の思考はかつてまだ、自らの肉体が存在し、栄華を誇ったあの太古の時代に飛んでいた。

自分もまだ若く修行の途上だった出立期、自身、名のある術師に理由なく幾度も戦いを挑んだものだった。
その時々には一度は師匠と崇めた者をも倒したことも何度もあった。

しかしそれも珍しいことではない、当時は戦うこと、強くなることがどの魔術師にとってもすべてだったから。

そうして彼は並ぶことのない力と地位を手に入れたのだったから。
それもはるか昔、人間が現在の形で地上に君臨する有史以前の話だ。

それから「彼ら」が衰退と滅亡に至るまでに更に長い歴史があるがそれはこの際には何の関係もないことだ。

それは長い歴史であっても魔術師にとっては一瞬に満たない懐古だった。
懐かしむ、などと言う生温い想い出でもない、そして今は目の前にかつての自分の様な者が立ちはだかっているのだ。


「…売られた喧嘩なら買わない訳にはいくまい」

佐藤にもはっきりそれとわかる威圧感を持って低くつぶやいた魔術師は天井の向こうにいる「何者」かを睨みつけるかのように振り仰いだ。

「…蛙男さん…」

佐藤が不安そうに声をかける。

その声に魔術師が今度は彼の方を振り返り、不安そうに自分を見上げるその瞳を覗き込む。

そうだ。

戦うとしても彼を巻き込むことは出来ない、あるいは「やつら」に佐藤の存在をあのときに見られていたかもしれない。
彼は何の力も持たないただの人間だ、魔法使い同士の壮絶な戦いの巻き添えを食えば命を落としかねない、
いや、間違いなく命を落とすことになるだろう。現に今その危機に立たされている。
彼は、彼だけは守らなければ。

魔術師がすばやくあたりを見渡した、
「よし、来い」
と再び佐藤の手を引いて既にドアの砕けた部屋に導いた、そこはどうやら従業員のロッカールームだったらしい、
もともとはロッカーが連立する部屋だったのだろうが今はそのほとんどが倒れ、ひしゃげて中身が散乱し足の踏み場も無い。

そのうちの一つ、ひときわ大きなロッカーが奇跡的ともいうべきかほぼ原型を保って立っていた。
立地条件がよかったのかもしれない、破片や他のロッカーから飛び出した何かによって殴られた扉にはだいぶ大小の凹凸が出来ていたがそれ以外損傷はほぼ無さそうだ、魔術師が扉に手をかけるとそれでも開閉機構がゆがんでいたせいか、やや力がいったものの派手な音を立てて扉は開いた。
どうやらこれは掃除用具入れだったようだ、箒やらモップやらバケツが入っている。

と、魔術師は片手に掴んでいた佐藤の腕を引っ張っていきなりその中に押し込んだ。
「わッ!」と佐藤が驚きの声を上げる。
またも簡単に魔術師の腕力にいいようにされて今度は掃除用具の中に突っ込むはめになった。

「いいか、俺が戻ってくるまでそこにいろ、ここなら無事だ、ほかに誰が来ても絶対に開けるな、たとえ救助隊でもだ、わかったな」

有無を言わせずそれだけ言い残すと魔術師はロッカーの扉を閉めた。
そして扉にその長い指先を当て、何か人間の耳には聞き取れぬ呪文のようなものを唱える。
僅かに指先に光のようなものが走ったように見えた。

とりあえず、佐藤はこれでいい、今扉にかけたのはごく簡単なものだが隠匿の呪文だった。
例えば魔術などで特定の人物を探そうとした場合などに有効で、要するに実際そこにありはするし目にも見えるが魔術を対象にして「見えなく」する。

そして「やつら」の意向が無い限り、このビルもこれ以上倒壊することは無だろう。
そもそも通常なら崩壊を起こすはずの無かった建造物だ。
先ほどから不気味にきしむ建物は彼らが文字通り「出て来い」と揺さぶりをかけているのだ。
魔術師はそれらを感覚的に悟っていた。

もう一度、「やつら」が待ち構えているであろう屋上を見上げ、魔術師は僅かに目を細めた。

一方、ロッカーに荷物同然に放り込まれた佐藤は狭く薄暗い中で流石に不安を隠せなかった。
ドアの外に向かって「蛙男さん!」と呼びかけてみるも、帰ってくるのは沈黙だけだ。
彼が立ち去る足音すら聞こえなかった、

一体、なにがどうなっているのか。
それにしてもモノじゃないんだからこんな風に簡単に放り投げないで欲しいなとおもいながら。
全く今日は何度モノのように扱われたことか。

そんなことより、彼はパーティ会場でたくさんの罪の無い人たちを無残に殺し、
あまつさえビルを崩壊させてさらに多くを殺した残忍極まりない相手と戦いに行ったのだ。
大丈夫なんだろうか?
彼を信じないわけではなかったが心配するなという方が無理である。

このビル内に一体何百人の人がいただろう、そしておそらくはそのほとんどが死んだだろう。
僅か一瞬でこの文明の英知を尽くして建てられた頑丈であるべき建物が崩壊した。
これほどの力を持った何者かと戦って万が一彼の身になにかあれば、その後自分はどうしたらよいのだろう。

嫌な考えが絶えず廻って思考を支配する。

― 彼を信じるんだ。

佐藤は不安な思考を打ち消すかのように大きくかぶりを振って不安を追いやった。

彼がここから出るなと言ったんだから自分に出来ることはただそれに全力で従うだけだ。
彼の為に自分が出来ることは、今はそれしかないのだから。

佐藤は何かに祈るようにその額を自分と外界を遮るロッカーの扉に押し付け、眼を閉じた。


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