―4―

魔術師と「やつら」は屋上で対峙していた。

下からはは人々の叫ぶ声とサイレンの音が響いている。


「へえー・・・」

感心したような声を上げたのは「やつら」のうちの一人、髪を短く刈って金色に脱色した大柄で筋肉質の男だ。
やたらと鎖のついた黒いレザーの服を着ており、動く度に金属の擦れあう軽い音がした。

大男はギョロ眼をギラつかせて大きな口を曲げ、にんまりと品の無い笑を顔いっぱいに浮かべた。
「やっぱ本当だったんだなあ」
面白そうに屋上への入り口近くに立つ長身の魔術師の全身を無遠慮に眺め回す。

そしてもう一人は、艶やかな黒髪の長髪を肩口付近でキッチリと切りそろえた、やたらとキザったらしい仕草男だ。
こちらは対照的に白いスーツと赤いシャツ、赤いネクタイで身を固めている、
鶏がらの様に細身で顔は頬骨が出っ張っていて唇が薄く、目も線のように細い。
やはり嫌みったらしい笑顔を浮かべて魔術師を見ていた。

二人は魔術師から10メートルほど離れた屋上の端の柵近くに立っている。

「お前らは俺を誰か知っていてこの様な所業に及んだのだな?ならばそれなりの覚悟があってのことだろうな」
魔術師が少しも表情を変えずに言う。

「えーえ」
キザな方の男が口を開いた。

「お目にかかれて光栄です、“キドー"様」

彼は恭しく胸に手を添えて挨拶しながら魔術師のことをそう呼んだ。
正確にはそれは人語で表現するならその発音が一番近い、と言うだけで実際には全く別の言語だったかもしれないが。

「“キドー”・・・か、その名も懐かしい」
魔術師が目を細めながら呟く、
そう、その名前は確かに古代自分を「称する」名前として使われていたものだ、本名ではないが俗称というやつだ。

そもそも、その俗称ですら知るものがまだいた事に少なからず魔術師も驚いていた。

「我々も自己紹介させていただきますよ、古代の最強の魔術師・キドー様、私は金属重力属性の魔術師Wリキ”と申します」
キザ男は名乗った
「俺は土竜属のジーニ」
大男のほうも相変わらず顔いっぱいの品の無い笑を浮かべて名乗った。

「…ふん、Wリキ”もWジーニ”もこれ見よがしな名前だな、古代語で「鉄」と「爪」か」
侮蔑を込めて吐き捨てるように魔術師がいう。

「そりゃあね」
リキが口をひらく、
「私らはアンタほど長生きじゃあない、アンタからみれば、ま、若造ってヤツか?たかだか2000年しか生きてないからねぇ、多少名前を売るのには覚えやすくないと。しかし若いからといって実力が伴わないってわけじゃぁないかもしれませんよ?」

「たかがこの程度でか?」

魔術師が皮肉めいた口調で言いかえす。
“たかがこの程度”とはこのビルの倒壊と沢山の死者に関してのことだった。
佐藤が聞いたら眉をひそめるに違いない発言だ、と魔術師自身も内心思っていたが、彼らの世界でいう力の度合いで行けば事実だ。

「あんなもんはホンのちょっとした小手調べでさ」
今度はジーニが口を挟んだ。
「ほら?アンタが伝説どおりのアレかちょいと知りたかっただけさ、なんせ復活したはいいけどやっぱヨボヨボの死に掛けジジイじゃあこっちとしても拍子抜けだからなぁ」
続けて肩を竦めながら言う。

「…ならば遠慮なく見せてもらうとするか、貴様達のその実力とやらを」
魔術師が静かに呟く。

その会話の間にも彼らの周りを重圧な空気が覆い始めていた、次第にその空気は重さを増し、張り詰めていく。
殺気だった空気が渦を巻き彼らの周りに一種の膜を張る。
ガンッガンッという鈍い金属音を立てて屋上の柵が不自然に曲がり始めた。
屋上の床に落ちていた建物の小さな破片がはじかれたように中を舞う。

常人の目には何が起きているのか見当もつかなかっただろうが既に戦いは始まっていた。

両者とも全く同じ場所から動かないように見える。
だが普通の人間がこの空間に踏み込めばたちまちその身は切裂かれ血煙と肉片になってあたりに散っただろう。
空気の鋭さは次第に小型のブラックホール並みの質量を持った領域にまで達する。

そのときビュッと鋭い音がして何かが屋上入り口のドアに叩きつけられた。

金属製の重いドアに半ばめり込むようにしてひしゃげているその物体は、よくよく見ないと判らなかったが魔術師のかけていた眼鏡であった。
無論嵌っていたガラスは砕け散りフレームの型が僅かにそれとわかる程度に留めているだけだったが。

魔術師はやはり一歩もあと退ることなくその場に立っていた、
だがその頬に一筋の薄い赤の線が走っている。

一瞬の静止の後ツッと一筋の血が流れた。

頬を伝って流れてきたそれを舌をだして先で少し舐めとる。
口の中に自身の血の味を感じると魔術師の鋭い眼がさらに細められた、

途端に鋭利な刃のような空気の流れが均衡からリキとジーニの方に向かって圧力を増す。
リキとジーニの顔色が変わった、次第に状況が不利になって来ていることに気がついた。
2人が魔術師の術を押し返そうと自分達の魔術に更に力を込める、
強力な魔力と魔力がぶつかり、跳ねつけられた力が飛沫となって周囲に飛び火した。

周辺に立ち並ぶビルの幾つかの上階があおりを受け爆発したように破砕する。
下界で人々の悲鳴が再び沸き起こった。
その建物の中にいた人はもちろん、破片が降り注いだ為、その真下いた人々にまで被害は拡大した。

そのとき、徐々にヒビの入り始めていた床から、ヘビのように鉄のパイプがくの字に曲がって飛び出した、
ビル内に供給していたと思しき水道管だろうか、一気に水が噴出する、水の勢いは恐ろしい速さでリキとジーニに襲い掛かった、ウォーターカッターという工具の存在を知っているだろうか、水の勢いで物体を切断するあれだ。恐らくはそれに匹敵する威力だっただろう。
リキとジーニは間一髪で左右に分かれてそれを避けたが、極僅かにリキの髪の先を水の刃が切り落とした
ジーニは自慢の頑丈な上腕二等筋に深さ5センチ幅20センチはあろうかと言う切り傷が出来た。

彼は水を操ることに関しては右に出るもののいない術師だ。

眼鏡が取れて、直に見える魔術師の眼は不気味なほどの殺気と禍々しさに満ちていた。
薄く笑を浮かべて彼らの前に立つ彼に、リキとジーニは初めて恐怖を感じた。




建物のきしみは収まるどころかいや増していた。
それどころではない、今度は何処かから爆発音のようなものがいくつも聞こえた、不安がますます大きくなる。
だが「彼」が大丈夫だというのだから大丈夫なのだ、佐藤は狭いロッカーの中で自分に言い聞かせていた。
そしてひたすら彼が一刻も早く無事に戻ってきてくれることを願っていた。

そのときだった、

「たすけて…」という女性のか細い声が聞こえた気がした。

一瞬空耳かと思ったが今度はさっきよりはっきりと「助けて!」と聞こえた。
その声にはっとする、確かに女性の声だ。
生存者がいたのか。

その声は「誰か!いないの?」と必死に叫びながらこっちの方に近づいて来ていた。
やはり生存者だ、必死に助けを求めているが怪我でもしているのだろうか?

しかし、ここから出るな、と彼に念を押されているのだ、佐藤は躊躇した。

どうしよう・・・、と逡巡しているとその声がロッカールームの前を通り過ぎて行くのがわかった。

「助けて…お願い…誰か…誰か・・・」

嗚咽の混じった女性の声が遠のいていく。
出るな、とは言われていたが、彼女は怪我でもしているのかもしれないし、或いは別の誰かが瓦礫の下敷きにでもなっていてその救助を求めているのかもしれない、見捨てるなど、出来なかった。

だがこんな中から声をかけるのも気が引ける。
佐藤は思い切ってドアを開いた。

ロッカールームから廊下に出ると、少し先に女性がひび割れた壁伝いにヨロヨロと歩いているのが見えた。
「大丈夫ですか!?」佐藤が彼女の背中に呼びかける。

はっとして振り向いた女性はまだ若かった、その服装から判断してどうやらここの従業員の女性のようだ、その制服らしき服装に見覚えがあった。
だがその明るい空色のスカートは埃にまみれほとんど元の色はわからなくなっているし、同じく明るい空色だっただろう靴も無残に片側のヒールが折れてまともに履いて歩ける代物ではなくなっていた。

彼女は生きている人の姿を眼にするとその大きな双眼から大粒の涙をこぼして佐藤のもとにおぼつかない足取りで駆け寄ってきた。
佐藤も瓦礫を踏み越えて彼女の元にたどり着く。

女性が崩れるようにして佐藤に抱きつき子供のように大声で泣きじゃくった。

「大丈夫ですよ、落ち着いて」
しがみ付く彼女をなだめる様にして彼女の背中を軽く撫でてやる。
埃にまみれ顔や手足の無数の切り傷から血が滲み一見無残な様相だったがどうやらこれといって命に関わるほどの外傷はなさそうだ、勿論見た目にはわからない内側の怪我を負っているかもしれないし、精神的ショックは大きいだろうが。

見ていて気の毒なほど震えているのは寒いからなどではもちろん無い、
それでも佐藤は着ていた上着を脱いで彼女の肩にかけてやった。

「さ、立って、もう大丈夫だから、ね、大きな怪我はありませんよね?」
なるべく優しく彼女を促しながら聞く、女性は何度も何度もうなずきながらなんとか立ち上がった。

とにかくこの女性を一旦先ほどのロッカーにかくまうべきだろうかと思った。
魔術師が安全だと言った場所なのだからそれがいいだろう。
それから救助隊に判りやすいように近くの窓に何か目立つ色の布でもかけておこうか。

――しかし、自分は?
彼女と一緒にあの狭いロッカーに入る?

――いや、それはちょっと…。

彼には出るなと言われたけれど、こういう事情では仕方が無い。
脱出できそうな別の出口を見つけてみようか、階段だってさっき彼と登ってきた一箇所だけではないはずだ。

「この中にいてください、ここなら安全だから、僕は救助隊が近くにいたら助けを呼ぶか、別に出られるところを探すから…」
いまだ泣きじゃくる女性をロッカーの中に導いて安心させるように言い聞かせた。

ロッカーの扉を閉めようとしたそのとき、佐藤の袖口をいきなり女が掴んだ。

「…ケンジさんが…」

彼女がようやくといった感じで嗚咽の中から声を絞り出す。
「え?なんですか?」
佐藤が聞きかえした。

「…ケンジさんが、反対側の奥の非常口で壁が崩れて下敷きになってるの…!お願い助けて!!」

ケンジというのは彼女の恋人だろうか?
やはり彼女一人では助け出せなくて誰かの助けを求めていたのだ、

「わかりました、この反対側にも非常口があるんですね?下敷きになった人がいるんですね?助けに行ってきますからここから動かないで、いいですね?」
彼女は壊れたばね仕掛けの人形のように何度も佐藤の言葉にうなずいた。






完全に形成が不利になったと感じたリキとジーニはさすがにヤバイ相手に喧嘩を売ったものだとやや焦りを感じていた、
水を使われては不味い、金属の属性のリキにとっても水は少々厄介だ。

しかし、そのとき土竜の属性を持つジーニがあることに気がついた。
土竜というのは一生の大半を土の中で過ごす生き物だ、視覚的に得られる情報より感覚的に感じる情報の方が正確で得るところが多い、
この才覚においてはジーニの右に出るものは現在この世にいなかっただろう。
そのときのジーニはいつかこの魔術師と最初に街中で出会ったときに見た彼が連れていた人間の気配を感知していた。
一度覚えた人物の気配は忘れない。

攻撃を仕掛ける前にも確かに存在を感じていたがビルの7階分を破壊した直後一旦消えていた、
要するに死んだかと軽く思っていたし、こだわる相手はこの魔術師だけだったので気にも留めていなかった。

それがついさっき突然現れた(佐藤が術を掛けたロッカーから自ら出たからだった)、なるほど、とジーニは理解した、この男が隠していたのだ。

もしかしたら、いや、きっと、これは使える。

ジーニは相方に目配せした、
ウマの合った相棒であるリキも相手の意思を理解した、完全に寸分違わず読み取れたわけではないがとにかく相方がなにか秘策を思いついたのは長年の付き合いでわかった。

彼らは絡みつくように周囲を支配する魔術師の恐ろしい気配から突如逃亡を図った。

未だそれなりの高さを誇る半壊した建物の、既に意味を成さない屋上の鉄柵を越えて飛び降りる。
その下には崩れたビルの壁が山を作り、救助に来た人間が数十人ほどひしめいていた。
その瓦礫の山を目掛けて一直線に落下した彼らだったが、着地の直前ジーニが頑丈な爪の生えた腕を一振りしただけで地面に大穴が開き、積もった瓦礫が木の葉のように宙に舞い上がった。
当然その中にはその一振りでバラバラの肉片にされた救助隊の隊員たちの体も含まれていた。
自ら空けたその穴に滑り込むようにして彼らは逃げて行った。
コンクリートの壁だろうがアスファルトだろうが、障害物に穴を掘ることに関してもジーニは得意中の得意だった。

直後、彼らの気配が消えると、魔術師は急速に気を鎮めて、あえて追うことをしなかった。
無用な戦いはなんにおいても避けるべきだと考えていたからだ。
所詮たかだか2000年生きただけの若い魔術師とこの自分との実力は違いすぎる、彼らとてこれに懲りて当分は襲っては来まいと思っていた。
倒しておいた方が何かといいかもしれないが、とにかく今は佐藤もいることだったし、ここで戦って万が一彼に被害が飛び火しないとも限らない。
決着であれば別の機会につけてもよかった。

多分、あまり待たせては佐藤も狭いロッカーの中で参ってることだろう。
魔術師は彼らの逃げた方向に背を向けて立ち去った。






ここが反対側の非常口近くだったが、
その惨状は想像してたより酷かった、おそらく自分と魔術師がいた辺りが一番被害が少ない箇所だったのだろう。
瓦礫の山また山で一メートル進むのさえも苦労した。
歪んだ壁や天井から水道管やら消火栓やらが破れ、水が滴っていた。
おかげで舞い上がっていた視界と呼吸を塞ぐ粉塵が湿気に取られやや落ち着き始めているのは確かだったが足場が悪い上に水浸しなのは余計に歩行の妨げとなった。

既に佐藤の服も埃まみれだった。
ズボンの裾はあちらこちらに出来た大小の水溜まりの所為ですでにびしょぬれで非常に気持ちが悪かった。

途中、大きく崩れた壁の瓦礫の下からにじみ出た血溜まりを見た、下に何らかの形で死体があるのは確かだった。
足をとられ転んだ拍子に手を着いた、そのすぐ傍の瓦礫のほんの僅かな隙間から長い髪の束が出ていた。
さすがにゾッとしない光景が続いた。
「誰か!いませんか!?」と何度か声を上げてみたが返ってくる返事はない、人のうめき声すら聞こえない。
やはりここは従業員の詰所などのある管理事務所階だったらしく、今のこの時間デパートは最も賑わっていた筈だからこの階には下に比べほとんど人はいなかっただろう。
ましてこの損壊状況だ、本当にこの先に生存者がいるのだろうか?

一瞬ガスの臭いの様なものがした気がした。
当然ガス管も破れているはずだ、今の所どこかで火災が発生した様子はないが油断は出来ない。
この辺の状況からすれば壁も天井も足場もいつ崩れるか分かった物ではなかった。
急がなければ。

ひび割れた壁にかろうじで掛かっていたフロアの非常口案内図を頼りにここまでやっと来たが、あの彼女がこの辺りにいてあれほどの軽症で済んだのはほとんど奇跡に近かっただろう。

薄暗い視界に中ほどから二つに割れ斜めにずり落ちかけた「非常口」の標識を見つけた。
ひしゃげたドア枠をくぐると、すぐそこにそれはあった。

この手が「ケンジさん」だろうか?

非常口の階段は全くといっていいほどつぶされ、
その瓦礫の間からやはりここの従業員の男のものと思しき黒いスーツの肘から先の腕がダラリと伸びていた。
どう見ても、もう命があるとは思えなかった。

そっと僅かに触れてみたその手は完全に冷たくなっており、既に硬くなり始めていた。
それにこの後ろに人が無事でいられるほどの空間があるとは到底思えなかった。
恐らくこの男は恋人であった彼女の目の前でこの瓦礫につぶされてしまったのだ。

彼女はこんな状態でも彼の生存を信じていたのだろうか?
いや、信じたかったのだろう。
そう思うと胸が痛んだ。
だがどっちにしてももう自分に出来ることは無い。

佐藤が諦めて彼女のいるところに戻ろうとしたそのときだった、
振り向いた先の通路の真ん中が突然円形に陥没し、
その穴から二人の男が飛び出してきた。

リキとジーニだった。

彼らは一旦瓦礫の中に身を潜めたあと魔術師の気配が追ってこないことを確認し、
自らも気配と気を消して遠くに逃げたように見せかけて戻っていたのだ。
もし追いかけられていたとしても自分たちの気配を隠すことにかけては自信があった。
佐藤が突然のこの男たちの到底ありえない状況の出現に驚いて瓦礫に足をとられ尻餅をつくように転倒する。
「ほら、いた、いた」
「ああ、間違い無ぇ、あのときの人間だ」
佐藤の前に立った二人が彼を見下ろしていた。
何だというんだ、一体。
今日はあるいは人生のうちで最も内容の濃い日かも知れない、佐藤は場違いながらそんなことを二人を眼にしながらボンヤリと思った。
「さて、時間が無え、ヤツから気配を隠してられるのも限度がある、直ここにも来るだろう、さあ一緒に来てもらおうか」
そう言うやジーニはその大きな手で佐藤の襟首を掴んで引き起こした。
「すまないねぇ、兄ちゃん、ちょっと付き合ってもらうよ」
リキがすばやく当たりに気を配るがまだ魔術師は近くにはいないようだ。
大男のジーニが軽々と佐藤を肩の上に担ぎ上げる。
「あッ!」
佐藤がやっと上げられた声は驚きの声だけだった。
二人は佐藤を捉まえたまま先ほど空けた穴に飛び込んだ、暗い穴は何メートル下まで続いているんか見当も付かないほど深かった。
落下の感覚に思わず佐藤がジーニの背中にしがみ付く。

数十メートルも落下したかと言うところで着地のような感覚があったがこれほどの距離を落下したにしてはあまりに軽い。
何が起きているのか周囲がほぼ闇に包まれていたので佐藤には判らなかった、しかし穴の底と思われる場所から、今度は横穴に向かって彼らが移動し始めたのはわかった。
直後、ズシンという空気を震わせる轟音が背後の先ほど落ちた穴の方で響き渡り、上から差していたごく僅かな光も閉ざされた。
その轟音と共に相変わらず大男に担ぎ上げられたままの佐藤の顔や頭に細かい砂埃や小石のようなものがぶつかって来た。
怪我をするほどの物ではなかったが驚きも相俟って思わず「痛ッ」と声が出てしまった。
「おい、ジーニ気をつけろよ?人間ってのはそれほど丈夫には出来て無いんだからさ」
とリキが声をかける。
「大丈夫だって相棒、俺がそんなヘマするかよ」
走っているような上下に揺れる感覚はほとんど無い、だがどうやってか、かなりの速度で彼らは移動しているようだった。
「よく言うぜ、こないだ例のヤクザに依頼された市長の娘、連れてくるときにうっかり首もいじまったじゃねえかよ」
「ありゃあどっちにしても殺すつもりで依頼された誘拐だったからいいじゃねえかよ!大体あの女がギャーギャー喚くからつい力が入っちまったんだよ、女の悲鳴は脳天に響くからな」
「へへっ、言うぜ、好きなくせによ」
リキが走りながら下卑た野次を入れる。
彼らは全く息も乱さず会話していた。



魔術師がロッカーの前にたどり着いた。
ロッカーの中にはちゃんと人一人分の気配が感じられた。

「待たせたな」

魔術師が扉を開けた、当然いるのは佐藤の筈だった。

が、

見知らぬ女が狭いロッカーの中にうずくまっていた、女が涙に濡れた顔を上げる、

― …なんだと?―

女が「わあーッ」っと泣き叫んで魔術師に抱きつく、救助に来てくれた人だとでも思ったのだろう。
「…クソッ…」
忌々しそうに顔を歪め魔術師が一人ごちた。
「どけ!」
泣き付く女を強引に引き剥がして佐藤のあとを追う。
背後から取り残された女性が「待って!」と叫んだが魔術師は聞かなかった。





どれほどの距離を移動したのかわからない、だが恐ろしいほどの速さでかなりの距離を来たのは間違いなかった、
その移動した道のりもかなり入り組んだ複雑なものだったに違いない、それはあたかも土竜のトンネルのように。
途中暗闇の中、何度か同じように轟音と共に衝撃が伝わってきたのを感じた、
彼らが周到に追われぬ様何度も退路を崩してふさいでいたのだ。

――どうしよう、あそこから出るなと言われていたのに。――

佐藤はおそらくは魔術師に「喧嘩を売った」とされる連中に拉致されたことを理解していた。
そして自戒した、自分の甘い判断で引き起こしたこの事態が彼にとってどれほど厄介で足を引っ張ることになるか。

――きっと怒られる、どうしよう。

彼らの移動が突然止まった。

ここは一体どこなのか、いや、どこでもないのだろう、空気の篭った地下であり、暗闇の中だ。
ジーニに担がれていた佐藤がいきなり地に下ろされる。
正確には落とされた、かもしれないが、手を着いた地面の感触は湿った土だった。
こんな全くの闇の中でもリキとジーニにはどうやら障害にならないらしい、
「おい」
リキが佐藤の顎を掴んで無理矢理自分の方へ仰向かせて彼の眼を覗き込む。
恐らくは十数センチ先に相手の顔があるはずだがそれすらボンヤリとした輪郭にしか佐藤には見えなかった。

「お前、Wキドー”の何だ?」

質問の意味がわからなかった。
今何か人の名前のようなものをこの男が口にしたように思ったが実際その言葉は不思議で、何語なのかすらわからなかったし、きちんとした言語として聞こえたのかどうかさえ怪しい、まるで脳に直接響いたかのようだ、それでもあえて言葉にしてみるならば「キドー」といったのだろうか?
だが、それがかの魔術師をさしているだろうことを何となく察した。

― …キドー?それが、あの人の名前…?

「なんだ?コイツ口が利けないのかよ?」
ジーニが半ばからかうような口調で投げ出された佐藤の足を靴の先で小突く。
「おや?声が出なくなりましたか?繊細なことで」
そう言うとリキは佐藤の顎から手を離す。
声が出なくなったわけでは無い、何から答えればいいのか判らなくなっていただけだ。
「しかし、ヤツ、奇妙だな俺らが逃げたらもう戦う気は無ぇんだ」
ジーニが首をかしげ乍らつぶやいた。
「案外、平和主義なんじゃねえの?」
とリキが一人で笑いながら面白くも無い冗談を言う。
「ったく冗談じゃ無ぇぜ、畜生、水さえないところなら勝てるかもしれねえのによ」
そう言いながら忌々しそうに足元の小石を蹴った、その石が佐藤の腿に当たり思わず「う」と苦痛の声が漏れる、
ジーニのそのモーションだけ見ていれば軽く小石を蹴っただけに見えたが実際にそれはかなりの勢いで飛んだし、当たった佐藤の足にはかなりの痛みが走った、事実このとき青痣まで出来ていたほどだ。
「水がねーところなんて乾季の砂漠くらいのもんだろうよ、だがまあ、確かに水さえなければ勝てるかもしれないがなあ…この東京砂漠じゃ無理ってもんか」
冗談混じりにリキが言う。

一瞬、二人は沈黙した。
「…ま、人為的に作り出せば、話は別だがな」
闇の中で薄笑いを浮かべ彼らは顔を見合わせた。






魔術師は焦りを感じていた、それは滅多に表情を崩さないはずのその顔にもハッキリ浮かんでいた。

佐藤はどこだ?どこにいる?
あれほど出るなと言っておいたのに、いっそのこと隠匿の呪文だけでなく出入りを封じる呪文でもかけて置けばよかったのだ。

しかし自分に万一のことがあれば(ほとんどある可能性だとも思っていなかったが)佐藤も逃げ出せなくなると思い敢えてそうしなかったが判断が甘かった。

そうだ、結局また自分の判断の誤りだったのだ。
全く、「死」ではない「永」の眠りについていた間に実際に衰えでもしたのか、奴らの言うとおり。
魔術師の顔に自分に対する皮肉と自戒の苦悶が浮かぶ。

神経を集中させて僅かに残像としてのこる彼の気配を辿った、
佐藤がやっとの思いで歩いた瓦礫の山を軽々踏み越えてしばらく狭い通路を行くと、現れたのはフロアの床に空いた直系5メートルほどの真円を描く大穴だった、周囲にほとんど光源が無い所為で中はほぼ黒い闇だったが、夜目の利く魔術師にはかろうじでつぶれた下の階の僅かな隙間などが見えた、だた穴の底がどこまで続いているかは判然としない。

―まさか、この穴に落ちたのか?
いや、違う、この穴は自然に開いたものではない。

さらに意識を集中してわずか数分前、あるいは数十秒前にここで起きたことを気で探る。

かすかに、先ほど戦ったあの連中の気配がした。
だいぶうまく隠してはいたがこの魔術師から隠しきれるものではない。

それから佐藤の気配も、ここで途切れている、正確には連中と共に穴の中に消えていた。

穴は深さ25メートルほどの地点で埋まっていた、
恐らくは彼らが通ったあと、追われぬ様ふさいだのだろう。

魔術師が無意識に握り締めた拳に自身の爪が食い込む。

― 捕まったか。

やはり佐藤の存在が彼らに知られていたのだ。
だが佐藤があのロッカーの中から出さえしなければ見付からなかっただろう。
おそらくあの女を助けたからだ。
お人よしが。
自分のほうが危ない立場に立たされていることをよく教えておくべきだった。
今更後悔しても遅いが。

そのとき、どこからか「ジリリンジリリン」と言うありふれた電話の呼び出し音らしきベルが聞こえた。

すばやく音の主の方向を見極める、
先ほど来た廊下の中ほどにある、崩れて高さが元の半分になってしまった入り口の部屋から聞こえていた。
低い出入り口をくぐると中は意外にも部屋の原型はまだしっかりしていて天井も高かった。
ただ机や書類棚や椅子はめちゃくちゃに散乱していた、そして中には警備員らしき二人の男の死体があった、

一人は重い書類棚の下敷きになっていた、もう一人は窓辺にいたのかガラスの破片が全身に刺さっていた、ひときわ大きな破片が首を貫いたことが直接の死因だろう。

その乱雑に散らばった部屋の真ん中に不思議なほど丁寧に、まるで人為的に置かれたかのように黒電話が鎮座していた。
呼び出し音が鳴っている。
魔術師が受話器を取って耳に当てた。

「よーお、“キドー”さん」
リキの明るい声が聞こえてきた。

「判ってると思うけど」
魔術師は答えなかったが構わずリキが続けた。
「アンタのところのアレ、こっちで預かったから、もう一度お手合わせ願いますよ?ね?いいでしょ?一応こっちで都合のいいフィールドを選ばせ貰うけど、○○北っていう小さい繁華街知ってる?あそこの外れにある廃ビルで今夜1時にね、まあ詳しく言わなくてもアンタなら来れるとおもうけど」
電話口の向こうでリキが肩を竦めた。

「傷つけるな」
魔術師が一言だけ言った、佐藤のことだ。
「努力しましょ」
リキが明るく答え電話を切った。

通話が切れたあとの電話は無音だった、当然、その黒電話の電話線などとっくに切れていて、どこにも繋がっていない代物だった。
彼は受話器を忌々しげに床に投げ捨てた、黒い電話機本体に当たり、双方とも無残に砕け散った。

魔術師はしばらくその場に立ち尽くしていた。

眼鏡を彼らに破壊され、少し窺い知れる様になった魔術師の顔は今まで誰も見たことが無い程に鋭く殺気と怒りに満ちた表情だった。

外からは人々の怒号とサイレンの音が引切り無しに響き続けていた。




この白昼の新宿で起きたビルの倒壊と周辺の建物にまで及んだ大惨事を各メディアは一斉に取り上げた、各テレビ局では特別番組まで組んで現場を繰り返し中継放送していたし、現場は一晩中マスコミと消防隊員、警察、野次馬でごった返す騒ぎとなった。

番組の中では多伎に渡る「専門家」とやらが事故の原因を手抜き工事によるものだとか基礎工事の甘さによる地盤沈下だとか水道管やガス管の老朽化によるものだとか、はては過激派によるテロだとか種々様々な諸説を唱えていたが、結局不可解な点の多すぎる大災害だった。

ちなみにかのビルにいた客および従業員の中で生存者は佐藤が助けたあの従業員の女性を含めわずか3名だけだった。周辺ビルや通行人、救助隊までも含めると死者・重軽傷者は500名以上にも上った。

彼女が救出された直後、羽織っていた男性ものの上着について「これをかけてくれた若い男の人が居た筈だ」と訴えたが勿論他の生存者の中にそれらしい人物は居なかったし、また死者の中にも該当する人物はいなかった、というよりも特定などできなかった。

それからもう一人。
彼女はほとんど顔も覚えていなかったが、確かにその後、長身の男が彼女の前に現れた筈だったがその男もまた死者にも生存者にも含まれていなかった。こちらに関しては結局、被災直後の彼女の記憶の混乱ということで片づけられてしまった。



一方、この事態が「彼ら」の戦いの爪あとであることを気配で察していたえんれいが佐藤と魔術師の家に電話を掛け続けていた。
彼女には占いを生業とする魔女の感で二人が巻き込まれていることが解っていたからだ。
だが、何度電話をかけてもそれを取る者はいなかった。
「もう!どうして出ないのよ!」
イラつきもしたがそれ以上に彼らの身が心配だった。
新宿界隈に住む彼女のような駆け出しの魔法使い達は皆、昼間の騒動に彼らが今だかつて出会ったことも無い程強力な魔力を感じ取って怯えていた。
彼らのネットワーク上では情報が交錯し、人間界同様の大変な騒ぎになっていた。
「…大丈夫なんでしょうね…あの男なんかはどうでもいいけど、あの子…」
ぶつぶつ言いながら自宅の高級マンションの中をすっぴんのまま右往左往していた。
昼間の大戦の一方があの魔術師なのは気で判る、問題はもう一方「リキとジーニ」だ。

えんれいも彼らのことは知っていた、というよりこの辺の魔法使い達のなかで彼らを知らないものなどいなかっただろう。
最近ではヤクザ者や政治家達の後ろ暗い依頼を受けては必ず100%の遂行率で成し遂げて荒稼ぎしている強力で凶暴な連中だった。
確か彼らはもう2000年近く生きているらしい、それを言うなら魔術師の方がよっぽど年上だったがなんにしても彼らが強力で凶暴だという事実は変わらない、
「あの男がだれにケンカ売られようと知ったことじゃないけど…」
心配なのは佐藤のことだった。
もちろん口で言うのとは裏腹に現代に蘇ったあの古代の魔術師にももちろん魔女として興味があったのではあるが、ともかく二人のことが気にかかった。
一人ごちながら本日十数回目の電話をかけてみた、夜も11時を回った頃だった。

―ちょっと、お願いだから今度こそ繋がってよ、

えんれいの祈りが通じたのか数回の呼び出し音の後電話が取られた。
しかし相手は無言だった、気配でわかる、あの魔術師だ。
「ちょっと!あんた達無事なんでしょうね!」
無言の相手にえんれいがいきなりまくし立てた。
嫌な予感がした、この男が電話に出たと言うことだ。
「あの子どうしたのよッ」

「連中に連れて行かれた」
僅かな沈黙の後、魔術師が一言だけ言った。
ああ、やはり、嫌な予感は的中した。
あんたがついていながら、なんて頼りにならないの!
途方もない怒りを覚えた。
「連れて行かれた、ですって!?あんた、昼間の相手がどういう連中だか解ってんの!?なに落ち着いてるのよ!あいつらはねとんでもないほど厄介な奴らなのよ人間なんて道端のアリ程度にも思ってないのよ、今まで何人依頼を受けては殺してきたか…」

以前あったことだ、彼らがとある政府の要人の暗殺を依頼され、それが内偵により事前に漏れて警察やボディーガードが何十人もその要人を完全体制で保護していたにもかかわらず、その場にいた警官含む者達を一人残らず殺害し、そのターゲットの要人をもまんまと惨殺せしめたのだ。
それも偶然そのとき現場を小用で離れていて惨事を免れたある一人の若い警官の話では、彼が現場を離れていたのは僅か5分に満たない時間だった。
たった5分間でその場にいた50人以上をどこがどの部分だかすらわからないほどの徹底した肉片に変え、かの要人を頭から股まで真っ二つにしたのだ。
それからこちらは当時ある市の市長だった男の娘が誘拐された事件だ。
全く、彼らに「誘拐」などという穏かな依頼は合わなかった様だ、脅迫の電話により誘拐の事実を知った市長が相手の要求を(それは当時彼の行った徹底的な弾圧により目の仇にされていたヤクザ組からの要求で、「辞任」であることは向こうが言わずとも解っていたらしいが)のんだにもかかわらず、娘はそれから一週間後、首もなく四肢もほとんどバラバラにされた無残な姿で発見された、検死解剖の報告によれば彼女はほぼ誘拐された直後に殺害されていたと言うことだ、頭部は結局見付からなかったらしい。
その上、彼女の死体は徹底的に切り刻まれ、はては死後にレイプされていたとのことだった、その後、愛娘を惨殺された元市長が自殺したのも当時ずいぶん話題になった。
もちろん犯人が捕まる事はなかった、そんな話を上げればきりが無い、彼らは運悪くその場に居合わせた者であれば幼児とて構わず殺す。

「このクソッタレ!あんた、あの子に何かあったらどう責任取るのよ!こうしてる間にだってとっくに…」
「それはない、奴等は1時を指定してきた、少なくともそれまでは殺しはしないだろう」
「ンなの解るモンですか!!あいつらに人質を大切に扱うなんてマトモな良心があると思ってるの?」
「…必ず助ける」
相変わらず抑揚の無い魔術師の声にえんれいはますます苛立ちを覚えた、
「言ってろ!粗チン野郎!あの子が心配なら1時と言わず今すぐにでも助けに行きなさいよ!あんた本当にあの子のこと助けようと思って…」

「黙れ!!!」

突然、魔術師が怒鳴った、そして叩きつけるような音と共に電話は切れた。
えんれいはその音に思わず受話器を耳から放した。
耳の奥がキーンと鳴っていた。
「…何よ…チクショウ」
耳を押さえながら、えんれいがつぶやいた。
だが、やはり心配ではあった、自分如き一介の魔女に出来ることは何も無い、それが判ってる分だけ歯痒かった。
しかし、とにかく、おそらく、一番佐藤の身を案じているのはあの男だ、それはよく判った。


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