―5―

佐藤はここがどこなのか正確に判らなかったが今は使われていないさして大きくも無い廃ビル最上階の一室だということだけ認識していた。

当然、リキとジーニもいた。
だが彼らは佐藤を縛り上げることすらせずにいた。

彼らは顔をつき合わせてなにやら見掛けにそぐわぬ小声で相談していた。

佐藤は最初にここに連れて来られた時に無造作に投げ出された姿勢と(それでも彼らにしては相当丁重な扱いではある)ほぼ変わらず床に座り込みながらぐるりと部屋の内情を見渡した、
天井の蛍光灯はその装置を形骸に残すだけで周囲に人工的な灯りなどは一切無く、既に夜の帳の下りた空からはやけに明るい月明かりだけがガラスの無い窓から差し込んでいた。
自分は彼らより出入り口に近い場所にいた、自分のいる地点から塗装のはがれかけた古い扉までせいぜい4〜5メートルといった所か。
入ってきたときに判ったが鍵は掛かっていないようだ、
隙を付いて逃げ出そうとすれば彼らより早く出られるかもしれなかったが、

いや、それは無理なのだろう、と佐藤は思い直した。

彼らがかの魔術師と同じ能力を持つ者ならば、おそらく彼らの不意をついて全速力で逃げ出だしたとて自分などあのドアに到達する前に殺されるだろう、
だからこそ縛りもせずこうして無造作に放置されているのだ。

「おい」

不意に声をかけられた佐藤の肩がビクッと小さく跳ねた。

「逃げようとしても無駄だからな」
ジーニがドアに視線をやっていた佐藤に注意を促した。

「そうそう、アイツが来るまでは一応アンタは大切なエサだから生かしておかないとね、殺させないでくれよ?」
リキが黒髪をキザったらしく手でかき上げながら言った。

「もう一度聞くけど」
佐藤の前まで歩を進めながらリキが問う。
「アンタ、本当にあの男のなんなのよ?ただの人間だろ?」

その問いには佐藤も答えを見つけられなかった。


― 何?

本当に、なんだろう。
えんれいにも聞かれたが、明確な答えは出せないままだった。

佐藤は自問していた。
彼の「パートナー」などと言うのはおこがまし過ぎる、第一役立たずな自分は彼の片腕にすらなれていない、
現にこうして今も人質になり迷惑をかけているのだから。
「友人」という対等な関係も、当てはまらないような気がする。
ならば「主従関係」かというと彼が自分をそうは扱ってないから違うだろう。

リキの問いかけが長年押し隠していた佐藤自身の不安と重なった。

「ん?」
しばらく下唇を咬んだまま答えの無い佐藤を不思議そうにリキが眺める。

そのリキに対し佐藤は精一杯の敵意を込めて睨みつけながら
「あの人は、来ません」
とだけ言った。

「は、は」
ジーニが後方で乾いた笑い声を上げた。

「へえ」
リキが面白そうに唇の両端を吊り上げる。
「そう思うかい?アンタは、いや?来ると思うよ?さっきのヤツの口ぶりからしてね」

佐藤も本気で「来ない」と言ったわけではなかった、きっと彼は来るだろう、いや、来て欲しかった、命が助かりたいと言うのではなく、望みだ。
彼から見た自分の重要性だ。
そんなものがあるのかどうか判らない、自分などいなくとも、彼の念願であるメシア復活になんの影響も無いはずだ、それでも彼が来てくれたらそれはそれなりに彼にとっての自分の存在価値があるからだ。
明確に「それ」という理由付けが自分に出来ないからこそ彼に証明してもらいたかった、それが、あまりに傲慢でおこがましく、口に出すことはおろか、思ってすらいけない願いだとしても。

同時にそれは悲痛な願いでもあった。
自分などの為に彼が万一にでも傷つく可能性があるのが怖かった。
自分などの為に彼を戦わせるのはあまりにも苦痛だった。

佐藤はうつむいて拳を固く握り締めた。
いっそ自分が始めからいさえしなければこんな面倒なことにはならなかったのだ、ああそうだ、いっそのこと今からでも無駄な脱出を試みて殺されてしまうか。
それが今の状況で自分が「彼」の為に出来る唯一の善作であるようにも思え始めた。

「しかし信じられないねえ、あの“キドー”が」
リキの言葉に佐藤がハッとした。
まただ、またあの不思議な発音の名前でかの魔術師を呼んだ気がした。
「…キドー…?それが、あの人の名前、なんですか…?」
佐藤の不意な問いかけにリキが一瞬きょとんとしたあとジーニに振り向き二人で顔を見合わせて爆笑した。
「ははは、違うね、正確には“キドー”だよ、まあキドーでもいいけどさ、人間に発音できるとは思わないし、それにそしてもさ、じゃあアンタ今までヤツを何て呼んでたのよ??」
そういってなおも腹を抱えるようにしてリキが笑い転げる。
「なんだ?コイツ、あの男の使い走りか何かなのかね?それにしちゃ助けに来ようなんてヤツもご修身なことだよなあ」
ジーニも眼に涙を浮かべて笑い転げていた。
正直彼らの愉悦は佐藤にとっては不愉快だったが、しかし言い返す言葉も無い。
だが、「キドー」というのが彼が自身忘れ去ったと言う名前だったのだろうか?

不意に笑を止めたリキが自分の腕につけたローレックスの特注腕時計に目を落とした。
「さて、じき時間ですな、お姫様?」
そのとき時計の秒針が丁度深夜1時を差した。
「ホラ、来なさった」
リキが言葉を発するのとほぼ同時に重い扉の向こうにあの男の気配が現れた。

扉が軋みを上げてゆっくりと開かれる。
だがドアノブが回った様子も、その向こうに現れた長身の主が回して開けた様にも思えなかった。

「“キドー”…」
ジーニがギョロ眼をさらに見開いてその男を凝視する。
蛙男さん!
その姿を見た佐藤が心の中で叫んだ。
その心の声が聞こえたかのように魔術師が佐藤の方を振り見る。
「無事だったか?」
「…ハイ…」
佐藤が泣き出しそうな笑顔で答える。
そして、
「あの、ごめんなさい!」
といきなり謝罪した。
この佐藤の謝罪にはいろんな意味があるのだ、
「貴方の言いつけを守らなくてごめんなさい」
「迷惑かけてごめんなさい」

それよりなにより。

「助けに来てくれて、ごめんなさい」だ。

― 全く。

滅多に表情を変えない魔術師がふっと優しげに微笑んだ。
今まで見たことも無いほど優しいその笑顔に思わず佐藤はどきっとした。
「こういうときはまず“ありがとう”というんじゃないのか?」
「あ…」
佐藤が口を開きかけたとき、魔術師は急に笑顔を止めた。
「まあいい、そのことは後だその代わり覚悟はしておけよ」
ああ、やっぱり怒っている、佐藤は今度は情けなさで泣きだしそうな表情になった。

「さて、いいかい“キドー”さんよ」
佐藤の傍に立つリキがやや強引に口を挟んだ。
「ここはごらんのとおり廃ビルで繁華街からも外れている、残念だがアンタのお得意の水はここの周辺だけ完全に止めさせてもらったよ」
そう言ったリキの言葉は本当だった、なるほど、魔術師が水の気配を探って見ても通常なら当然あるはずの地下を走る水道管やビルの配管内、僅かな地下水などの一切が感じられなかった。
「そっちのルールで戦わされるとはずいぶん卑怯じゃないか?」
とは言うものの魔術師はさしてそんなことは問題にしてもいないような風に言う。
「卑怯じゃないさ、相手をこっちの都合のいいフィールドに引き出すのも力量のウチだろう?」
リキが佐藤の首根っこを掴んで無理矢理立たせる、
「お姫さん、アンタはこっちに来てな、危ないからね」
そのままリキが佐藤の首に腕を回して逃げられないようにして広くも無い一室の隅まで連れて行く。
それに比例するように進み出たのはジーニだった。

「さて、いざ尋常に勝負してもらいやすぜ“キドー”さんよ」
ジーニの人一倍太い大木のような右腕の皮膚を裂くようにして長い半月状の刃物が突き出ていた。
だがそれは金属ではなくまるで石膏か何かような質感に見えた。
実際それは彼の修行の結果出来た自身の骨から出来ていた、しかしそれの強度は通常の金属をはるかに上回っている。
昼間の戦いで魔術師がつけた二の腕の傷は不思議とふさがっていた、術師ならば回復専門でなくともある程度自分の傷は修復できる、それは当然のことだった。
だからこそ術師を相手に倒すのであれば息の根を止めなければならない。
両指の先からはその指と同じ太さのこれまたそこらの合金よりもはるかに頑丈な「爪」が出ている。
鎖だらけの衣装のジーニはこれで全身が凶器になったかのようにさえ見えた。

全身のあちこちが月の光を鈍く反射していた。


まず最初に攻撃に出たのはジーニだった、彼は恐ろしいほどのスピードで魔術師に半月状の骨の刃で襲い掛かった、
だが魔術師はなんなくその第一の攻撃を避けた。

廃ビルの一室を異様なほどの圧迫した空気が支配し始めていた。

執拗に得意の「骨の刃」と「爪」での攻撃を一瞬の休み無く繰り出すジーニに魔術師はただその攻撃を避けているだけのように見えた。
だが実際にはこうして一気呵成に攻撃するタイプの相手に共通する隙を窺い狙っていた。
それを部屋の隅で見守る佐藤には目の前でなにが起きているのかさえほとんど目に止まらなかった。
ただ風を切裂く音が時折聞こえ、それから戦う二人の姿が時々にかすんで残像として見えただけだった、
それから空気の圧力が何十倍にもなったように感じていた、息苦しさを覚える。

急に壁に大きくヒビが入り窓枠がひしゃげた。

佐藤を捕らえるリキも笑顔をやめて今や真剣な面持ちで見つめていた。

ジーニが次の攻撃に移ろうとした瞬間だった。
隙が出来た。
これだ、戦いにも熟練した魔術師はこのタイプに共通するこの弱点を狙っていたのだ、一瞬の息継ぎ。
その一瞬を着いて魔術師が攻撃を繰り出した、

ジーニの右手の「爪」が手のひら半分ほどと一緒に切断され飛ばされる。
そのときに魔術師が使ったのはただの人差し指と中指だけだった、それが男の頑丈な手を一振りでスッパリと切り落とした。

「うおおおおっ」
利き手の指先を失ったジーニが吠える。
次いで魔術師が低い声で“呪文”をつぶやく、すると今度はジーニの全身の血管が膨張する。
「ぎゃああああッ」
傍目から見てもそれは明確に判った、男の血管が倍以上に膨れ上がり、葉脈のようにその体を多い尽くす。

あと僅か数瞬リキが止めに入るのが遅ければそのままジーニは全身の血管を破裂させられて死んでいただろう。

魔術師がジーニに止めを指す前に、リキが捕らえていた佐藤を通常では考えられないほどの強い力で投げ飛ばすようにして壁に叩き付け、戦いに割って入った。
壁に叩きつけられた佐藤は壁に衝突した瞬間、ゴキ、という嫌な音が右肩からの激痛と共に伝えられたのを聞いた。
衝撃をまともに受けた右腕が脱臼し、同じく背中をしたたかに打ちつけた所為で呼吸が出来なくなった、
強烈な激痛と呼吸困難に佐藤が声も無くのけぞった。
意識せずとも涙が零れ落ちた。
それでも頭を打たなかったのは幸いだったと言えよう。

リキが手にして襲い掛かった大型のサバイバルナイフを人差し指の先だけで止めた魔術師がそれを眼の端に捉え睨み付けた、
「傷つけるなと言ったはずだぞ」
「へへっ、すまないね、ちょっと力が入りすぎちまってさ、人間ってのはヤワだからねぇ」
リキが魔術師と僅か数十センチの距離で対峙しながら無理矢理作ったゆがんだ笑みで答える。
ナイフと魔術師の指の極狭い隙間に、よくよく見れば火花のような小さな閃光が走っていたのが見えたかもしれない。

リキがサバイバルナイフを使うのは別に自身の力量が足りないからなどではない、単にそれぞれの術師は得意とするものを一つは持っている。
それは「水」というような自然界のものであったり「爪」のように自分自身の体の一部であったり「ナイフ」のような人工的なものであったりするだけのことだ。

なんとか体勢を立て直したジーニと共に今度はリキも加わって得意の金属で一瞬の隙無く魔術師を攻撃した。
ジーニは残った左手の「爪」と右腕の刀身を駆使して戦う。

あたりの空気がそれ自体が鋭い刃物になったが如くに張り詰められる。

一方で佐藤がほとんどままならない呼吸をどうにか捉えて、
未だ激痛が走り僅かにも動かすことの出来ない右腕を反対の手で押さえ、何とか壁伝いにヨロヨロと立ち上がった。

脱臼に対する対処の仕方は知っていた。
知ってはいたが実際脱臼を起こしたのはこれが初めてだったし、生兵法で下手をすれば後遺症が残ることも考えられた、
だがやるしかなかった。

両足の腿で外れた腕の手首を挟んで定位置に固定し左手の平を脱臼箇所に当てて、一呼吸置いた後、意を決して思い切り良く押した。
グキッという鈍い音と共に先ほどの激痛を凌駕する痛みが脳天を突き抜けた。
「うぐっ!」
食いしばった歯の間からでも苦痛のうめきが漏れる、
だが、なんとか再び間接を元の位置に嵌めなおすのには成功したようだ。
まだ痛みは持続していたが先ほどまでよりはだいぶ軽い。
荒い呼吸をつきながら、佐藤は再び彼らの戦いに眼を向けた。
佐藤の目には何が起きているのか見えはしなかったがそれでも目をしっかり開けて、見据えた。

彼はいつでもその時々に自分がやれる精一杯の事を探していた、
いまは、彼らの戦いを見守ることだと思った。
だからなんとしても自分ことは自分の力だけでやらなくてはならない。
佐藤はそういう覚悟で臨んでいた。

――やるじゃないか。

それを戦いの合間に横目で見止めた魔術師が佐藤の努力を心の内で褒め称えていた。
ならば自分とてこんな連中に負けるわけにはいかなかった。


ジーニとリキの猛攻にそれをかわしているのが精一杯なのかと二人は思っていたようだが実際は違った、魔術師の眼は冷静に二人を観察していた。
反撃の機会を狙っているのだ、次第に息の上がってきた2人とちがってこの魔術師は息はおろか表情さえ乱していなかった。


― たかがこの程度か

魔術師は内心“楽しい”戦いではないなと感じた。
久しぶりに好戦的な自分の本質に火をつけてくれはしたがやはりそれなりに力の均衡があってこその戦いだ。
彼らはまだ力が足りない。

まして、なにより彼らは佐藤を傷つけたのだ。
許しがたいことだ、彼らには自分たちのおろかさを悔いて死んでもらう。

魔術師の眼の色が変わった。


勝負は一瞬だった。


渦巻く空気の中、佐藤は先ほどから何かが細かく周囲に飛び散っているのに気がついた。
もう少し辺りが明るければそれが赤い色をした肉片であったことがわかったかもしれない。
さらに風を切る強い音がしてガンッと勢い良く何かが天井に突き刺さった。

風が止んだ。


魔術師がほぼ部屋の中央に立っていた。
風に煽られ髪がすこし乱れてはいたもののもともとボサボサとした手入れをしない髪だ、一見何が変わっているようにも見えない。

ドンっと音を立て奥側の壁に背をつけたのはジーニだった。
彼はその右腕のほとんどの肉がフードプロセッサにでも掛けられたかのように削られ骨になっていた。
そして大木のような太い右足も側面がほぼ削り取られ生々しく血が滴っていた、左の足に比べ右足が半分の細さになってしまっていた。
先ほど天井に刺さったのは彼の腕から生えていた半月状の刃だ。
良く見れば部屋の壁のあちこちに丸い穴が開いている。
左手の「爪」の何本かが折れてそれぞれ壁をぶち破るほどに突き刺さったあとだった。

「ぐげぇ」と奇妙な声をあげドア付近でがっくり膝を突いたのはリキだった。
彼の白スーツの左肩から右わき腹にかけて袈裟懸けに切れ目が入り、そしてそこから大量の血が噴出していた、口からもダラダラと血が流れる。


勝負はついた。
見ていたはずの佐藤にもこれが長い戦いだったのかそれとも一瞬だったのか判断がつかなかった。
とにかく、勝利が魔術師の側についたことだけはわかった。


魔術師の眼が細められる。
すでに瀕死のリキとジーニはこの男が自分たちにいっぺんに最後の止めを刺そうとしているのを感じた。

確実な死を悟ったリキの眼に一瞬それが映った、

この人間だ!

リキが残りの力を総動員して佐藤を目に止まらぬ速さで背後から捕らえた。
「動くんじゃねえ!!コイツ殺すぞ!!!!」
リキが血泡を飛ばしながらナイフを佐藤に突きつけ魔術師に向かって叫んだ。

その光景に魔術師が眼が見開いて動きを止める。

そのとき一瞬の隙が出来た、
だが一瞬で十分だった。

同じく瀕死だったはずのジーニが、
ほぼ無事な左足で床を蹴った。

残った左手の「爪」を魔術師の後頭部に向かって振り下ろす。

鋭い爪が魔術師の身体を振り抜けた。
魔術師の首が一緒に切られた長い髪の一部と同時に切断され胴体から離れ落ちる。

鈍い音を立てて頭が床に転がった。
落ちた頭部は自身の長い髪にまみれその表情がどんなものであったか窺い知ることは叶わなかった。

それから数瞬遅れで残った胴体も崩れるようにまず膝を着き、前のめりに倒れた。


佐藤はその光景に目を見開いた、

「は、はは」
魔術師の死体を見下ろしたジーニが乾いた笑い声を立てた。

「は、はは、ははははやったやったぞ!!!あの“キドー”を倒した!俺たちの勝ちだ!!!」
やはりリキも血泡を飛ばしながらやや狂気じみたトーンで歓喜の声を上げる。
「ひゃははははははははははははははは!!!」
彼らの狂喜の笑い声が辺りに響く。




―ウソだ。
あの人が死ぬなんて、ありえない。

こんなの、ウソだ。




声を限りにあげたかったがリキの腕が丁度首から口までを押さえていて上げられなかった、
佐藤は渾身の力を振り絞ってリキの腕から逃れようともがいた、だがリキは下手をすれば佐藤よりも痩せぎすでましてや酷い怪我を負っているはずなのに不思議とその腕はビクともしなかった。
佐藤の目から痛みからでも苦しさからでも無い涙が溢れた。

リキが無造作にナイフを振り上げた、
魔術師を倒したらもうこのエサに用は無い、
さっさと佐藤を殺すつもりだった。

そのナイフを勢い良く振り下ろし腕の中の佐藤の頭部に付き立てた。
人間の柔らかい頭蓋骨を簡単に突き破って脳を抉った。



筈だった。



が、それを行ったはずのリキの腕が、肘から先が手にしていたナイフごと消失していた。

「れ?」

状況が理解出来ないまま笑顔を張り付かせたリキが血煙を上げる自分の腕を不思議そうに眺めた。
勿論佐藤には傷一つ付いていなかった。



「それで勝ったとしても」



佐藤は聞き覚えのある低く、静かなその声を背後に聞いた。

「ずいぶん卑怯な勝ち方じゃないか?」

魔術師だった、彼が全く無傷でリキの後ろに立っていた。

「・・・」
リキが変な笑顔を張り付かせたままぎこちなく声の主を振り返る。
一瞬、顔の横両耳のあたりに冷たいものが走った気がした、

「お」

何事かをリキが口にしようとした瞬間、そのリキの顔面の耳より前の部分が音も無くスライドし、床に落ちた。
そして佐藤を捕らえていた腕からも力が抜け解けるようにしてその胴体も倒れた。

「・・・蛙男さ…」
リキの死体には眼もくれず佐藤が振り向きその姿を認め涙を浮かべてその名を呼んだ。
魔術師はそんな彼に向かってまた優しい笑顔を見せ、そして幼い子供をあやすかのようにその大きな手で佐藤の頭を軽くポンポンと叩いた。

先ほど、首を落とされた魔術師の死体があったはずの場所には何も無かった。
ジーニは相棒の死とこの魔術師の幻術にまんまと嵌ったことを思い知った。

「う」

ジーニは半ば確実に迫った死を実感しながらも最後のあがきに出た。

「おおおおおおおおおおおおおおっ」

残りの鋭い爪を振りかぶって魔術師と佐藤に襲い掛かってきた、
魔術師が冷静に一歩佐藤よりも前に歩を進める。

一旦胸の前で両腕をクロスさせる、その手の平は緩やかに開かれた状態だ。
そして次の瞬間その両腕をすばやく横なぎに払うように広げた。
目の前に迫った野獣の動きが、止まる。

一瞬の静寂をはさんでジーニの体に幾つもの赤い横線が刻まれる。
そして次の瞬間にはその線に沿って男の巨体が十数の輪切りになって勢い良く四散した。

思わず佐藤はその光景から目をそむけた。






二人は廃ビルの外にいた。

近くにあったバス停のベンチに佐藤を座らせて魔術師が先ほど脱臼した肩の辺りに触れた。

「大丈夫か?」

痛みはまだ鈍く持続していたが何とか動かせるしこれくらいはどうと言う事は無い。
「はい、大丈夫です」
だがそう答えた佐藤の顔は、言葉に反して真っ青だった。

「嘘をつけ」

魔術師がその蒼白になった顔の輪郭を指先で軽くなぞった。

「・・・貴方が死んだかと思いました」
佐藤がその顔を隠すように俯きながら呟いた。
ああ、さきほどのことか、と魔術師が納得して軽く何度かうなずいた、
「あんな連中にこの俺が負けるわけが無いだろう」
安心させるように優しげに囁いてその頭を軽く撫でる。


―子供じゃないんだから。

そう抗議しようかと思ったが顔を上げられなかった、色んな安堵感で今更涙が溢れてきて止めようと思っても出来なかった。
いっそ顔を覆って泣きたかった。

これじゃ本当に子供だ。

「…ごめんなさい…」
俯いたまま佐藤が言う。
「だから、まずは“ありがとう”じゃないのか?それに今回のことは俺の油断がいくつもあった、その所為でお前まで危険にさらしたんだから謝るべきは俺の方だ」
彼の優しい物言いにやっと佐藤も僅かに顔を上げて魔術師を見た。
その眼鏡の無い直の瞳は月の光を反射して光る不思議な色合いの、深い色をしていた。
なんだかこうして彼の「素顔」をマトモに見たのは初めてかもしれない、と思った。

「今度同じ状況にあったらお前はふん縛って便所にでも放り込んでおくことにするからな」
そういって今度は「わざと作った」憮然とした顔で言いつけた。
その言葉に今度は恥ずかしいと言うか、申し訳ないというか、とにかく複雑な感情が溢れて来て、佐藤は今度こそ顔を両手で覆った。


「そうだ!キドー…」
とっくに終バスも電車も無い静まり返った深夜の街を歩く佐藤が魔術師に向かって思い出したようにその名を口にした。

「ん?」
先を歩く魔術師が振り返る。
「貴方の名前、キドーっていうんですか?」
「ああ、それか正しくは“キドー”だがな、そうだな確かにかつてそう呼ばれていたことがある」
「じゃあ…」
「本名ではない、俗称というか通り名だな、昔は他の術師に本名を知られることは一種の禁忌だった、だからそういう通り名を使ったんだ、古代語で意味は「水を司る者」だ」

佐藤はすこしガッカリして肩を落とした、彼の本名を知りたいと以前から願っていたからだ。

「じゃあ・・・」
佐藤が再び顔をあげて彼に呼びかけた。

「貴方のことをなんて呼べばいいんですか?」

「お前の呼びたいようでいい」

そう言った魔術師の顔は今日何度目かに見たあの優しい笑顔だった。

それが何であれ、彼の呼んでくれる名前が自分にとって一番心地よく響くだろう。
魔術師はそう思っていた。



第一話・END


←戻る   TOPに戻る